- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回は信長の天下布武を支えた九鬼水軍を特集する。
- キーワード
- 九鬼水軍
オープニング映像が流れた。
鳥羽城跡には戦国時代の遺構が残されていて、周囲には海、川、池があった。城に接近する船舶があれば、迎撃できるよう天守には大砲も設置されていた。また、伊勢湾では捕鯨をしていたといい、頭領の九鬼嘉隆が朝廷に鯨肉を献上したと文献に記されている。岬から指揮官が指示を出し、多くの船団が連携し合うことで鯨を仕留めることができたといい、軍事にも活かされたと考えられる。織田軍が苦戦を強いられた長島一向一揆の際、鎮圧に大きく貢献したという。
河合敦氏によると、鯨肉は珍重され、縁起物として朝廷に献上された。捕鯨の他、ボラ漁でも船団の連携が欠かせず、河合氏は「日頃から戦に近いような漁をしていた。九鬼水軍の戦いぶりは統制がとれていた」と話す。さらに鉄甲船をつくる造船技術も持っていたというが、史料は散逸している。
大坂本願寺は一向一揆の一大拠点で、海から武器や兵糧を運び込んでいた。織田軍は海上封鎖に着手するも、対立する毛利水軍、それに与する村上海賊たちが救援にかけつけた。手痛い被害を受けた信長は九鬼嘉隆に対し、頑丈で燃えにくい鉄甲船の建造を命じた。鉄甲船を目撃したポルトガル人によると、船内には大砲が設置されていたという。1580年、本願寺と信長は和議を結び、本願寺は大阪の街を明け渡した。
戦の際、約100人が鉄甲船に乗り、大砲も積載されていた。ポルトガル人宣教師は鉄甲船を「日本で最も大きく華麗な船」と激賞し、母国の船を想起したという。ただ、機動性に難があり、一揆の鎮圧後に鉄甲船は解体されたと考える学者もいる。
豊臣秀吉のもと、九鬼嘉隆は鳥羽の海賊から大名へ出世した。一方、海賊行為を繰り返していた村上海賊は瀬戸内海から追放された。秀吉は朝鮮出兵に踏み切ると、九鬼水軍は造船を命じられることとなり、過酷なノルマを課されたという。秀吉の薨去によって、朝鮮での戦は幕を閉じた。不要となった軍船は解体され、 関ヶ原の戦いの際に九鬼嘉隆は西軍、子息は東軍につく。西軍敗走の知らせが舞い込むと、九鬼嘉隆は切腹し果てた。1633年、九鬼家は分裂し、鳥羽から内陸部に領地替えを命じられた。
領地替えは九鬼にとどまらず、多くの海賊が海から切り離されたという。河合敦氏は陸地と比べて海上で起きたことの痕跡は残らず、「見ている人も少ないので、記録も少ない」と話す。ただ、研究が進んでいて、今後の進展に期待したいという。
「歴史探偵」の次回予告。