- 出演者
- 富澤たけし(サンドウィッチマン) 柴田英嗣(アンタッチャブル) 山崎弘也(アンタッチャブル) 伊達みきお(サンドウィッチマン) 中山秀征
現在はMCなどで活躍中の中山秀征だが、元々は歌手を目指していて事務所に入ったが歌のレッスン中、歌は違うんじゃないかという空気になった。芝居の方に移るも、芝居もイマイチじゃないかとなり、事務所に新設されたバラエティのチームに引き取られた。このチームには三谷幸喜やホンジャマカ石塚も在籍していた。そこで中山秀征はお笑いコンビ・ABブラザーズでデビュー。当時をよく知る同期のホンジャマカ石塚はダンスレッスンで中山がレッグウォーマーを履いていてダサイと思っていたが、ダンスは誰よりも上手かったと話した。
ABブラザーズはすぐにブレイクし、デビュー1年目から「ライオンのいただきます」にレギュラー出演。さらにオールナイトニッポンのパーソナリティに抜擢され若い女性たちから圧倒的支持を得た。石塚はヒデちゃんが頑張ってくれたからネプチューンなどが来たりしているおおもとはヒデちゃんのおかげだと話した。そこでABブラザーズのコンビ時代のミニコントを公開。
ABブラザーズが4年目になるとダウンタウン、ウッチャンナンチャンを筆頭にお笑い第3世代ブームが到来。ABブラザーズはランキング形式のネタ番組にも呼ばれるが、焼き直しの古いネタだったため如実にランキングが落ち、全ての時代が変わるような感覚だったという。その後、「夢で逢えたら」や「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が放送開始。そしてABブラザーズは1992年に解散。中山秀征はホッとしたという気持ちがあり、自分の道に進もうとピン活動に専念。
1991年、中山秀征の原点となる番組「DAISUKI!」がスタート。深夜番組では異例の高視聴率14.7%をとったこともある。この番組でMCのスタイルを確立。ただ遊んでるのではなく、死ぬほど遊んでいる。作っている姿をできるだけ見透かされないようにするのが自分のやり方だった。石塚は「DAISUKI!」が今の日本のロケ番組の基本を作ったと話した。
1993年に「殿様のフェロモン」がスタート。お色気・ドッキリ企画がメインのバラエティ番組で中山秀征と今田耕司がダブルMCを務めた。今田耕司との気合いの違いがあり、中山の存在に納得がいっておらず、殺伐としていたという。このダブルMCは噛み合わずわずか半年で終了。そして15年後に今田耕司とお酒を交わした際、申し訳なかったと謝罪され「全員殺しにいくつもりで行った」と話していたという。
1995年、「THE夜もヒッパレ」がスタート。安室奈美恵・SPEEDなど数多くのスターを輩出した音楽バラエティ。様々な番組に必要とされる理由に石塚は番組に出てくれた人を楽しませようという精神がある。嫌な思いをしたことある人は1人もいないと話した。
1980~1990年代のテレビ業界の打ち上げについて中山秀征は渡辺プロの新年会の会長賞が車だった。テレ朝の深夜番組の打ち上げで万札のつかみ取りをやっていた。また志村けんさんは払わせてくれない。何千万奢ってもらったか分からないと明かした。
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- 志村けん
中山秀征はお世話になっていたという志村けんとの飲み会について、岩盤浴→行きつけのお店でご飯→クラブというルーティンがあり、それが毎日行われていた。また志村けんが上島竜兵にたまには払ってみろ!と言うと、上島は泣きながらタダだから来てんだよ!と言い放ったという。
今のテレビ業界の魅力について中山秀征は今のみんなの方がポテンシャル高い。今の方が可能性がある。ここからもう1回作れると思う。今の方が狭いけど技術が高いから今からの方が楽しいと話した。
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- 今夜は最高!
中山秀征が著書「いばらない生き方 テレビタレントの仕事術」を告知。