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オープニング映像。
10代の時に右耳の聴力を失い、一時期無国籍者となるなど過酷な人生を歩んできたフジコ・ヘミングは90歳を超えても現役のピアニストとして活躍した。リスト「ラ・カンパネラ」は彼女の代名詞となり「魂のピアニスト」と呼ばれるようになった。2023年11月2日に自宅の階段から転落し大けがを負い、緊急手術を受けた。ことしに入ると検査ですい臓がんも見つかった。フジコ・ヘミングは2024年4月21日に逝去した。5年間にわたって取材した魂のピアニストの記録。
取材に訪れるたび、フジコ・ヘミングは自宅3階の部屋でピアノに向かっていた。100年前に製造されたドイツ製のピアノで、母がピアノ留学した際に手に入れたものだった。母・投網子は留学中にスウェーデン人のデザイナー、ジョスタ・ヘミングと結婚。1931年にベルリンでフジコが生まれ、翌年両親はフジコを連れて日本に帰国。4歳で母にピアノを習い始めた。日本での生活が行き詰まった父はフジコが6歳の時にスウェーデンに帰国し、そこから一度も日本に来ることはなかった。母はピアノ教師として働いた。母の奏でるショパンの演奏が原点となったフジコは、ショパンを終生愛した。
ポーランドで生まれたフレデリック・ショパンは20歳で祖国をあとにし、パリで名声を得たが生涯祖国に戻れなかった。28歳の時、恋人ジョルジュ・サンドとの逃避行でスペイン・マヨルカ島で一冬を過ごした。医師から死を宣告されながらいくつかの名曲を作った。2022年にフジコはマヨルカ島へ旅をした。ショパンが過ごしたカルトゥハ修道院跡でコンサートを開き、ショパンの曲6曲を演奏した。
リスト「ラ・カンパネラ」はフジコの代名詞となっている曲で、1999年に発表したアルバム「奇跡のカンパネラ」は大ヒットとなった。バイオリニストのバスコ・バッシレフと指揮者のマリオ・コシックに協力を求め「ラ・カンパネラ」をめぐる旅とコンサートを企画したが、昨年11月にフジコは自宅階段から転落し大けがを負った。大けがを負ったフジコのもとをバスコ氏が見舞いに訪れた。92歳の誕生日を迎えた2日後で、誕生日を祝った。電子ピアノを持ち込んで弾き始め、1日も早く復帰したいとつらい治療を続けた。カンパネラをめぐる旅とコンサートも実現できればと願っていた。
フジコは1999年に放送されたドキュメンタリー「フジコ あるピアニストの軌跡」がきっかけで多くの人に知られるようになった。その中でフジコは自分のカンパネラが一番気に入っていて他の人の弾き方が嫌い、機械みたいなのは嫌いで少しくらい間違っていてもかまいやしないと語っていた。ラ・カンパネラはパガニーニが作曲したヴァイオリン協奏曲が原曲。フジコはパガニーニの生誕地やリストゆかりの地をめぐるコンサートを計画していたが、2023年末には病院で寝返りもうてず検査で腫瘍も見つかっていた。
フジコ・ヘミングは16歳の時に中耳炎をこじらせて右耳の聴力を失ったが、左耳を頼りにピアノを続けた。東京藝術大学に進み、21歳の時に音楽コンクールで入選を果たす。西ドイツへの留学の手続きをしたところ、無国籍者となった。戦後の混乱のなか国籍選択の手続きをしていなかったためだった。国外に出られなくないと言われたが、彼女のファンだったドイツの対しが手続きをしてくれてドイツに行けたという。29歳で避難民として西ドイツへ渡った。ドイツの新聞で「ショパンとリストのために生まれたピアニスト」と紹介された。ウィーンへと拠点を変えると、レナード・バーンスタインらの目に留まり1969年にピアノリサイタルを開くことになった。しかし直前に高熱を出し左耳にもダメージを受け、コンサートは中止となった。その後大きなチャンスが巡ってくることはなく、ドイツで1人ピアノ教師として生計を立てた。その後母の死がきっかけで1995年に34年ぶりに帰国。1999年に「奇蹟のカンパネラ」が大ヒットとなった。
2024年2月10日、リハビリ専門の病院に転院していたフジコはつらいリハビリが続いていた。フジコとコンサートを行うはずだったバスコ氏は、フジコが良くなるよう祈りを込めてパガニーニゆかりのサン・フィリッポ・ネリ教会でラ・カンパネラを演奏した。フジコはパガニーニの曲を元にリストが作ったピアノ曲をパガニーニの生地で演奏したいと考えていた。リハビリを兼ねて病院1階にあるピアノの前に座ったフジコは、幼いころから親しんでいたモーツァルトのピアノソナタを弾いたが自らピアノのふたを閉じた。この日がフジコがピアノに触れた最後の日となった。
エンディング映像。
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