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宗教法人靖国神社。国家のため命を落とした軍人らを神として祀ってきた。これまで一度も公にされてこなかった文章が保管されている。侵略戦争を指導したとして裁かれたA級戦犯・東條英機。靖国神社への戦犯合祀は国内外で波紋を広げてきた。戦後80年を機に交渉を重ね内部文章の取材が可能となった。これまで空白だった戦犯合祀に至る意思決定の詳細。A級戦犯合祀の方針が打ち出された音声記録も発見された。
オープニング映像。
靖国神社の第14代目宮司の大塚さん。自衛隊出身で2年前に就任した。神社を支えてきた戦没者の遺族が年々減少する中、取材に応じた理由を「全く戦没者の慰霊・顕彰という概念がなくてもいらっしゃる方もおられる。政治家とお話していてもそうだし学舎の方でも事細かいことはなかなかご存知ない方がおられる。できるだけ詳らかにいろいろなことをオの中に知っていただくことが一番いいのかなと」と話す。靖国神社には歴史的資料が大量に保管されている。開示されたのは重要事項を図る総代会の議事録。国との間に交わされた戦犯合祀に議論に関する議論の記録など全18000ページに及ぶ文章や音声記録など専門家の知見も合わせて分析、戦後史の空白を埋めることを試みた。靖国神社の根幹を成してきたは戦没者を神として祀る合祀。戦後81年がたった今でも続けられている。その数、創建以来、246万6000あまりに登る。明治天皇が創建した靖国神社。戦前は陸・海軍省が管理していた。戦争に突き進んだ日本。国家は軍人軍属の戦没者を神として靖国神社に合祀することで戦意高揚につなげた。アジア諸国に甚大な犠牲を出し日本人だけで310万人の命が失われた。敗戦後、GHQ・連合国軍総司令部の占領下で陸・海軍省が解体。靖国神社は宗教法人となった。戦前は陸・海軍省が合祀対象者を調査・決定していた。終戦後、神社が担うこととなり膨大な戦没者の合祀は困難になっていった。今回開示された文章。切り離された国と神社の関係を取り戻そうとするグループの動きが記録されていた。厚生省の引揚援護局。終戦から11年後、合祀の進め方を文章にまとめていた。引揚援護局の要職についていたのは旧軍人の官僚。戦後も影響を持ち続けていた。構築したのは合祀事務協力という体制。引揚援護局は神社の以来に応じて都道府県とともに合祀対象者を調査。名簿を神社に送る。これを受け靖国神社の判断で合祀を決定する。国家が神社を支える耐性を再び築いていた。中心にいたのは元陸軍大佐の美山要蔵。担っていたのは海外からの引き揚げなど戦後処理。美山要蔵の次男・光庸。当時、父が最も重んじていたことを「戦後処理の中でウエイトが高かったのが戦没者の合祀の問題であった。とにかく戦没者の慰霊・追悼が要蔵の後半生をそれに捧げる」と語った。今も保管している父親の日記。そこには昭和天皇と面会した際の美山要蔵の言葉が記されていた。戦争で家族を亡くした遺族の存在があった。國松さんは6歳の時に父親を裁判の戦場で亡くした。軍人軍属の遺族の多くは終戦後、GHQに恩給を廃止されたことや合祀が進まない状況に不満を募らせていた。國松さんは日本遺族会に入り戦没者の追悼を国家の責任を持つべきと訴えてきた。厚生省の元官僚で戦後処理にあたった竹之下氏。旧軍人たちの言葉から戦没者の追悼に対する強い執念を感じたという。
保管されていた文章には今に続く問題の原点といえる議論が記録されていた。旧軍人は合祀の協力体制を築いた後、対象としてこなかった戦犯合祀に向けた検討を神社側に打診していた。極東国際軍事裁判で連合国側は侵略戦争を計画・遂行したA級戦犯として政府や軍の指導者ら28人を起訴、判決で7人に死刑が出された。一方、住人の殺害や捕虜の虐待など罪で裁かれたのがBC級戦犯。連合国による裁判がアジアの各地で裁かれ約1000人に死刑判決が言い渡された。1952年、日本が独立を回復したサンフランシスコ平和条約。5年後、美山ら戦争裁判そのものに疑問を呈し戦犯合祀につなげようとしていたことが明らかになった。示していたのはBC級戦犯を先に合祀する方針。捕虜虐待や住民殺害、個別の起訴内容を60以上に列挙。一つ一つを反証しようとしていた。そして裁判には事実認定上の誤りが多かったとして戦犯の無実を主張していた。この文章についても厚生労働省は同じ表題の公文書を保有していたと認めた。その上で合祀の決定は靖国神社が行うものであり旧厚生省はその決定に関与していないとしている。当時、戦犯をめぐっては国政の場でも釈放・復権を図る動きが進められていた。衆議院では戦犯の刑罰を免除する赦免を進めるよう政府に求める決議を可決。法律も改正され処刑された戦犯について遺族年金の支給対象となった。厚生省の引揚援護局はBC級戦犯の名簿を送り神社は346人を合祀した。国際社会に対しては戦争裁判を受諾した日本。国内では戦犯が靖国神社に神として合祀された。これが今に続く二重構造といえる状況の始まりだった。戦後の合祀体制を主導した美山は1つだけ保留したことがあった。1962年に厚生省を退官する前にA級戦犯の名簿だけは神社に送らなかった。
靖国神社ではその日の命日の戦没者を慰霊する催事を365日欠かさず行っている。現在まで続くA級戦犯を巡る問題。資料には空白となっていた合祀に至る詳細が記されていた。神社畝井の重要事項が諮られる総代会の議事録。総代会は国会議員や財界の重鎮、元官僚など10人で構成され合祀の判断についても議論する。1966年、厚生省から神社にA級戦犯名簿が送られた。神社が揺れ続けていたことが明らかになった。合祀を迫った参議院議員の青木一男総代。戦時中、東條内閣で大東亜大臣を務めていた。当時の宮司・筑波藤麿はA級戦犯の合祀に慎重だった。その考え方を象徴するのが鎮霊社。敵味方関係なく世界中のあらゆる戦没者を慰霊するための社だった。総代会の議事録にはA級戦犯の合祀に慎重になる別の事情も記されていた。靖国神社を再び国家管理に戻すとした国家護持法案。神社や遺族が実現を求めていたが世論が分かれていた。宗教団体などが反発していた。懸念していたのは東條英機の合祀。それが社会に与える影響だった。1970年6月、合祀をするとした一方で宮司預かりにすると決定。筑波藤麿は亡くなるまでA級戦犯の合祀を見送り続けた。1978年、松平永芳が新たな宮司に就任。A級戦犯についての考えを初めて伝えた。部下に語ったのは東京裁判の強い反発。裁判は不当だと主張していた。松平永芳の宮司就任には一部の遺族の強い働きかけがあった。元陸軍大臣・板垣征四郎の息子・正。遺族会の事務局長を務めていた。宮司の決定に強い影響力を持つ総代や政治家と調整を重ねていた。松平永芳の祖父は元福井藩主の松平慶民、父・慶民は宮内大臣として昭和天皇に使えた。この2人から強い影響を受けていたという。戦前の天皇を元首とする体制と神道。最も大事なものと松平永芳は主張していた。1978年10月の総代会、A級戦犯の合祀が総代に諮られた。この場で反対した総代は誰一人いなかった。A級戦犯の合祀は決まった。A級戦犯を合祀した後、宮内庁関係者に昭和天皇の参拝を繰り返し要請していた。1975年を最後に靖国神社を参拝することはなかった昭和天皇。天皇の参拝は半世紀以上、行われていない。
今年6月、都内で行われた国際交流の催し。靖国神社の宮司を務める大塚海夫が神社の考えを国内外に発信する活動に力を入れ始めていた。会場からは神社を巡る疑問もあがっていた。靖国神社の戦犯合祀が外光問題となったのは1985年、中曽根首相が公式参拝したことがきっかけ。中国が反発し、韓国からも批判が相次いだ。A級戦犯の合祀は戦争の評価や戦争責任を巡る歴史認識問題として表面化した。公式参拝の法的根拠を検討した元内閣法制局長官・阪田雅裕。外交問題になると想定できていなかったと明かした。事前に公式参拝のあり方を検討していた有識者の懇談会では一部から懸念が示されていたが重視されなかったという。事態の収集を迫られた中曽根内閣。その中枢がある方策について神社側の意向を探っていた記されていた。中曽根内閣は国際社会を意識し、ある事実を改めて示した。サンフランシスコ平和条約で裁判を受諾している政府見解を今も維持されている。戦争裁判を受諾した日本。一方、国内では戦犯が神として靖国神社に祀られている。二重構造といえる状態が今も続いている。靖国神社という存在は戦後の日本に様々で複雑な歩みをもたらしてきた。A級戦犯の名簿を送ることはなかった美山要蔵。軍人軍属を祀る靖国神社とは別の追悼のあり方を模索していた。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に力を尽くしていたという。空襲被害を受けた民間人など全ての犠牲者を等しく追悼することだった。美山要蔵は毎日、千鳥ヶ淵に通い頭を垂れていたという。戦争から81年の歳月が過ぎ去った。今、戦後生まれた全人口の89%。国会議員は99%が戦後生となった。この日訪れた参拝者は5万5000人、去年より8000人減った。訪れた遺族団体は1組だけとなった。
エンディング映像。
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