- 出演者
- 田中裕二(爆笑問題) 太田光(爆笑問題) 石原良純 小柳ルミ子 高橋英樹 大友花恋 池田直人(レインボー) みりちゃむ 藤井直樹(美 少年) 佐々木久美(日向坂46) 松田好花(日向坂46) 佐野晶哉(Aぇ!group) ジャンボたかお(レインボー) 山崎玲奈
石原裕次郎は慶應大学在学中に映画デビューし、国民的スターへと駆け上がった。石原良純が裕次郎の偉大さを語る。
オープニング映像。
裕次郎の映画デビュー作は「太陽の季節」。原作は兄の石原慎太郎が芥川賞を受賞した小説。主演は南田洋子と長門裕之で、裕次郎は脇役だった。
徹子の部屋で石原裕次郎は元々太陽の季節にはアルバイトでスタッフとして参加していたが撮影現場で出演を勧められたと語った。日活はデビューから2か月で裕次郎初主演の映画「狂った果実」を公開。ファンだった北原三枝を相手役に指名し、2人は昭和35年に結婚した。過激なシーンのために自主規制する映画館が続出し、不良スタイルを真似た太陽族が社会問題になった。これらの映画がきっかけの一つとなり未成年の映画鑑賞の制限が強化された。裕次郎の主演作品は年間最大10本、デビューから18年間で主演映画数は89本。映画の中で裕次郎が歌った歌がヒットし、総売上枚数は6960万枚。曲から映画が制作されたパターンもある。高橋はその場で覚えて歌っていたからすぐ忘れちゃう、自分の曲を聞いて「誰が歌ってんだ?」と言っていたと話した。
「燃えろ!石原裕次郎 芸能生活25周年記念」での石原裕次郎の歌唱映像を伝えた。
映画俳優が所属する会社の映画にしか出演できなかった状況を嘆いていた裕次郎は日活を退社し、昭和38年に石原プロモーションを設立した。黒四ダム建設に立ち向かう物語をやりたいと三船敏郎に協力を求め、映画「黒部の太陽」の制作が動き出した。協力を要請した関西電力と建設会社各社がバックアップした。2人は壮大なスケール感にこだわり、一切の妥協をしなかった。その後も石原プロは企業とのタイアップで大スケールの映画を制作したが、日米合作の「ある兵士の賭け」で5億8千万円の負債を抱えた。時を同じくして石原プロにオファーされた「太陽にほえろ!」が窮地を救った。最高視聴率40%、14年も続くヒットドラマとなった。銀座の真ん中に装甲車が登場したり遊園地でカーアクションをしたりと何でもありだった。裕次郎と石原軍団は国民的な人気となった。
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- ある兵士の賭けアメリカキース・エリック・バートサファリラリージェームス三木バップビデオリサーチヴィンセント・フォートル三船プロダクション三船敏郎三菱電機五反田駅五社協定井手雅人勝新太郎千野皓司吉永小百合国弘威雄大阪府太陽にほえろ!太陽にほえろ!1979 DVD-BOX1宮下潤一宮越澄富士山頂小林旭小澤啓一山田信夫我が人生の辞 口伝新井光日本テレビ放送網日活日産自動車札幌(北海道)村野鐵太郎東宝松竹栄光への5000キロ永原秀一渡辺拓也熊井啓白井伸明目黒川石原プロモーション石原慎太郎石原裕次郎石原裕次郎 渡哲也 石原プロ社史石原音楽出版社蔵原惟繕西部警察 PART-I西部警察 PART-II銀座(東京)関西電力青志社静岡県黒部の太陽黒部ダム
西部警察の全国ご当地爆破集の映像を伝えた。破壊した家屋は約320軒、壊した車両は約4680台、飛ばしたヘリコプターは約600機。
ユジは47歳のときに解離性大動脈瘤で緊急入院。6時間半に及ぶ大手術が施された。石原プロの敷地で行われた復帰を祝う餅つき大会の映像を伝えた。だが3年後、50歳目前で肝臓ガンが発覚。52歳で亡くなった。青山葬儀所の本葬には3万人のファンが献花した。三回忌には葉山町に裕次郎灯台ができた。七回忌には約3万8000人が参列した。良純は十三回忌の参列者に配られたワインを紹介した。
山口百恵は70年代に昭和歌謡界を席巻し映画・ドラマ界でも人気絶頂を極める中、7年半で絶頂期に引退した。2020年にサブスクが解禁になると#山口百恵がトレンド入りした。山口は昭和48年にオーディション番組から「としごろ」で清純派アイドルとして歌手デビューしたが、オリコンチャート最高順位は37位。2曲目「青い果実」で路線変更し、際どい歌詞を歌ったところ大ヒット。その後も歌詞はエスカレートし「ひと夏の経験」では全国のPTAから苦情が殺到。ファンクラブの数は一気に3倍となり、紅白歌合戦にも初出場を果たした。マスコミの取材で「女の子の一番大切なものって何?」と聞かれたとき、山口は「まごころです」と返した。初の主演映画は「伊豆の踊子」。後に結婚する三浦友和と共演した。山口が7作品出演した赤いシリーズの中では3作品で三浦と共演した。
事務所の後輩、榊原郁恵は「ザ・ベストテン」の舞台裏で「大丈夫身体は?」とさりげなく声をかけられ、天使のささやきのようだったと話した。社内で「百恵は勉強家だった」と言われており、色んなジャンルの音楽を聴いていたという。山口は「涙のシークレット・ラヴ」を作った宇崎竜童の曲を歌いたいと事務所に直訴し、その話を聞いた宇崎が制作を快諾した。
宇崎に作ってもらった「横須賀ストーリー」は累計売上66万枚(オリコン調べ)を突破し、人生最大のヒット曲になった。阿木・宇崎コンビが提供したシングル曲は13曲。阿木は「徹子の部屋」に出演した際、歌の行間の意味を掴むのが天才的だった、「プレイバックPart2」では「馬鹿にしないでよ」が1回目と2回目で歌い方が変わっていると語っている。その後様々なアーティストから楽曲提供を受けるようになった。昭和55年、21歳のときに婚約と引退を同時に発表した。
小柳は結婚後に山口の家に遊びに行った、芸能界の友達に会うと未練があって引っ張られるんじゃないかと三浦が心配して山口もそう思われなくないため三浦がいないときに訪ねていたと話した。山口は昭和55年10月5日のさよならコンサートでマイクを置き、表舞台を去った。