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「そんなの嫌い」 のテレビ露出情報

戦前の新聞の片隅には当時の人々の生活や思いが表れているコーナーがあった。読書からの投書を紹介する投書欄。多くの新聞にこうしたコーナーがあり、実名だけでなくペンネームや匿名の投書もあった。言論統制が存在した時代の人々の本音が垣間見えるという。宮崎公立大学・金子龍司講師によるとネットやSNSがない時代、投書が自分の考えを発信する手段だった。日々感じる疑問や意見、ラジオ局宛てだけでも年間2万4000通以上の投書があった。投書は一定の影響力を持つようになっていく。芸者出身の歌手で人気だった美ち奴さんのヒット曲「あゝそれなのに」は帰りの遅い夫を待つ妻の心情を歌った曲は当時の流行歌だった。人気とともに批判の投書も増えていった。女性の甘える言葉を子どもが口ずさみ不快という投書が相次ぎ、今で言う炎上のような現象が起きてしまう。さらに新聞のコラムでは美ち奴さんの顔写真付きで炎上していることを記事にした。投書から始まった美ち奴さんの曲をめぐる騒動は拡大していった。
レコード会社に当時の“炎上後”の記録が残されていた。録音日・曲・歌手などを記録した吹き込み報告書には炎上後に録音した美ち奴さんの新曲「そんなの嫌い」の記録を見ると検閲を通っておらず、もう一回吹き込み直していた。戦前のレコードには国の審査・検閲があり、検閲を通らないと発売が許されなかった。検閲に美ち奴さんの曲が引っかかったという。記録の隅に注意書きがあり、「デモ貴方は」という言葉のために発売禁止になる可能性があったという。さらに3か月後、検閲を所管していた内務省から複数のレコードが製造中止を命じられた。美ち奴さんは歌手生命の危機に陥った。レコード会社によると、その後は政府が推進する「軍歌」を歌い活動を続けた。当時の新聞でも投書が検閲に影響を与えていると伝えるなど、投書は無視できない力を持っていた。
どんな人たちが投書を送っていたのか。実名で10通以上の投書をしていた女性を発見。当時の記録を調査し女性の自宅を訪ねた。投書者の息子によると母親は約30年前に亡くなり、投書のことは知らなかったという。男性の母親は裁縫が得意な主婦だった。投書について調べていると伝えると、母親が晩年住んでいた家に案内してくれた。生前使っていたというタンスには新聞社などからのお礼の手紙が残されていた。投書者の息子は「自分の考えを投書して大手の新聞社に認められたことは母にとってはうれしいこと」と語った。男性の母親は1938年から投書を始めた。日中戦争が始まりコメの節約が話題になった頃。主婦目線で戦時下を乗り越える術を発信していた。1940年、戦争が長期化し衣服などの規制が進むと古着を利用するなどして質素な生活をするべきだと訴えていた。人々の投書は社会の動きとともに変わっていった。戦争が激化すると国の方針を後押しするようなものが目立つようになった。1941年、太平洋戦争が開戦。敵国の言語・文化の排除運動が始まると、敵性言語の排除という国の方針に従った投書が次々と。その矛先は当時人気だった軽音楽へ。またも投書で炎上し、その後全面的にジャズバンドなどは禁止された。宮崎公立大学・金子龍司講師は投書が統制を加速させたと指摘する。

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