2002年5月、べにまさり作りが始まった。渋谷はべにまさりを掘り起こしたが形にバラツキがあった。こんな曲者を育てるのはムリだと離れる農家が続出した。しかし渋谷にはあとに引けない事情ができていた。2000年代に入り、禁煙ブームが加速。1200あった葉たばこ農家は127戸まで衰退した。渋谷が跡継ぎとして期待した息子も大学卒業後、自動車用品を販売する会社に就職するという。渋谷たちは棚谷たちと連携し栽培実験を始めた。ある日、棚谷のもとに「焼き芋を売り出したい。芋を卸してほしい」と電話がかかってきた。電話をしたのは静岡に拠点を置くスーパーで農産物を担当する久保田義彦からだった。棚谷は「絶対に言われた数字を収めるから、その代わりほかからは買うな。うちもやるから裏切るな」と伝えると久保田は「任せてください」と言った。久保田は3年で赤字店舗の立て直しを成功させた強気の男だった。会社には年間5000万円を売ってみせると啖呵を切った。久保田はこれまでにない焼き芋器の情報をキャッチしていた。この焼き芋オーブンを開発したのは園田豊太郎。園田は35歳で脱サラし変わった商品の発明を生きがいとする男だった。しかし出しても出しても商品がヒットしなかった。焼き芋器の発注は一挙40台。初めての大型受注だった。しかし棚谷には大きな危機が訪れていた。別のスーパーに出荷したべにまさりに、クレームが入った。保管したら芋から目が出てきた返品させてほしいと言われた。棚谷は返品された大量のべにまさりを前に立ち尽くすしかなかった。
