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「アンドレ・デ・ナイヤール名誉教授」 のテレビ露出情報

フェデリコ2世は無血講和で約束された10年の間、イタリア・メルフィに足繁く通った。講和の2年後発表したメルフィ法典ではヨーロッパで初めてカトリック以外の信徒も法の庇護を受けられることを明記した。これによりギリシャ正教徒やユダヤ教徒が皇帝側につくことに。生涯3度も破門されたフェデリコ2世だったが味方に困ることはなかった。メルフィ法典は「貧しい人に国選弁護人をつける」「女性に結婚を拒否する権限を与える」など当時としては画期的なものだった。また、フェデリコ2世は専門の大学を出た医者と薬学者しか医療に携われないようにし、10年の平和の間に医療は民間療法から医学へと大きく進化した。さらにエルサレムでの講和の後、フェデリコ2世は飢饉対策としてアラブ原産の栗を持ち帰り、メルフィ法典で規則を定めるなどして貧しい人々のための食料の確保に努めた。
平和で豊かな世を築こうとしたフェデリコ2世は八角形の城「カステル・デル・モンテ」を築いた。塔の形や外観に至るまでて徹底して八角形にこだわった城で、アントワープ大学のアンドレ・デ・ナイヤール名誉教授はエルサレムに建つイスラム教の聖地「岩のドーム」の形を模すことでイスラム側との講和の証として建てた城なのではないかと推測している。フェデリコ2世はカトリックが禁じたイスラムの最先端の学問を次々と導入。天文学や建築学が一気に発達した。カステル・デル・モンテにある大きな吹き抜けは音楽をこよなく愛したフェデリコ2世が音の響きを楽しむために作ったとも考えられている。リュートなどアラブの楽器を積極的に導入し音楽を楽しんでいたという。フェデリコ2世は今、幼少期を過ごしたパレルモの教会の棺で眠っている。

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