1990年代初頭、バブル崩壊後の日本。総合トップメーカーのトップに君臨してきた日立は、半導体やコンピューター事業の売り上げが海外メーカーに押されて激減。事業再編を余儀なくされた。笠戸工場の鉄道車両部門は解体の標的となっていた。長年、新幹線や国内鉄道の僅かな車両の注文を他社と分け合う状態だった。売り上げは会社全体の1%にも満たない弱小部署だった。正井健太郎は子どものころから大の電車好きだった。鉄道車両部門を志願し同期1000人の中で、唯一配属されたが仕事はなかった。上司からは家庭用生ゴミ処理機の開発を命じられた。1995年、副工場長に石津尚澄が就任した。石津は長年、産業プラントの設計で海外を渡り歩いた敏腕エンジニアだった。生まれも育ちも向上がある下松市だった。石津は正井たちを呼び「外野の球拾いになるな。自ら打ちに行け」と言い放った。さっそく初めての車両の開発が始まった。独自の加工技術を使い美しい車体を作り上げた。軽くて丈夫な上に製造コストも安く抑えた。石津はすぐに売り込みを開始し九州の鉄道会社などで次々と採用されていった。1999年、工場長になった石津は、鉄道車両部門は海外メーカーに売却する予定だと聞かされた。石津は工場を守り抜きたいと思った。偶然、日本の商社マンがイギリスの鉄道会社を招いて全国の車両工場を巡っていた。イギリスの鉄道会社の人は車両の価格とか納期に苦労しているというので、石津はイギリスに進出することを決めた。イギリスでは鉄道の民営化が失敗していた。社長に許可をもらい正井は実寸台の車両の模型を持ち込み、事故も遅延も減らせると売り込んだが相手にもされなかった。そんなとき、イギリス高速鉄道の入札が始まった。石津はライバル会社の営業マン・アリステア・ドーマーを引き抜いた。石津はドーマーに入札用の資料をみせた。しかしこれでは勝てない「故障率や製造コストをもっと高く表記しろ」と言われた。これでは顧客に日本とは違うことを分かってないと思われてしまう。そのためあえて価格と故障率をあげた。これで信頼を得て入札元の社長が笠戸工場にやって来た。必死に説明しclass35の正式受注が決まった。
