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「ジム・クロウ法」 のテレビ露出情報

1912年、若き日のマハトマ・ガンジーは弁護士としてイギリス植民地の南アフリカに暮らしていた。同じイギリス植民地のインド系移民のために人種差別的な法律に抗議していた若きガンジーは、遠く離れたロシアで反戦を訴えていたレフ・トルストイと手紙を交わし、非暴力で戦うことの意義を学ぶ。1915年、母国インドに戻ったガンジーは大英帝国の苛烈な統治と貧困に苦しめられる人々の姿を目にする。イギリスの搾取に対する抵抗し、独立を訴えるためにガンジーはインドの伝統的な糸車・チャルカで糸を紡ぎ、大英帝国の綿製品を買わないというボイコット運動を始める。この非暴力運動は全土に広まり、やがてガンジーはさらに大規模な運動を起こすに至った。1930年、ガンジーは78人の弟子と共に400km離れた海岸まで歩き、当時違法とされていた塩の製造を行うという行動に出る。この抗議運動は海外のメディアを通じて世界に報じられ、インド国内でもガンジーの行進に参加する人が瞬く間に増えていった。出発から26日目、海岸に到着したガンジーの後ろには1万人の人々が並び、他の都市でも塩を作るために海岸へ向かう人の姿があちこちで見られた。この事態に慌てたインド総督府は行進する人々を片端から逮捕する。しかし、混乱を抑え込むことはできず、1931年には限定的ながらも人々による製塩が許可されることとなった。
やがて、ガンジーはインド統治について話し合うロンドンでの会議に招かれることとなった。会議の席上で2時間にわたる演説を行い、インドの独立を訴えたガンジーだが、その結果はインドの人々の期待を大きく裏切るものだった。ガンジーはそれでも非暴力での戦いを辞めようとはしなかったが、皮肉なことに第二次世界大戦がインドの独立に大きなチャンスを与えた。大戦で疲弊したイギリスはかつての植民地の大半を手放すこととなり、インドも1947年8月15日に独立を宣言。しかし、独立したインドは宗教観の違いという大きな問題を抱えていたインドに先駆けて独立していた隣国・パキスタンはイスラム教徒の国家で、インドはヒンドゥー教徒が多くを占める国家。人々はそれぞれの国家を目指して大移動を始めたが、その過程で暴動や異教徒に対する虐殺が頻発する。この現状に心を痛めたガンジーは村々を巡っては争いを辞めるように説いて回り、死を覚悟した断食を行ってイスラム教徒との融和を訴えた。しかし、その行動を目にした一部のヒンドゥー教徒はガンジーに憎しみを募らせていく。1948年1月、非暴力を訴え続けたガンジーは夕べの祈りを捧げにいく途上で凶弾に倒れ、78歳でその生涯を終える。ガンジーを暗殺したのは、かつて「塩の行進」に加わったヒンドゥー教徒だった。死の数日前、ガンジーは自らの運命を悟ったようにこう語っていたという。「私の命を狙う人を憎む必要はありません。私のことを守ろうとして、彼を犯罪者扱いしてはいけません。そうした考えはあなた自身への裏切りです。彼の心を変えるには、みなさんの力が必要なのです」。
ガンジーの死から11年後、1人のアメリカ人がガンジーの火葬場を訪れた。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、「キング牧師」と呼ばれていたそのアメリカ人は、本国で人種差別を撤廃するための運動を展開していた。キング牧師が働いていたアラバマ州は特に人種差別の激しい土地で、あらゆる施設が白人専用と黒人専用に分けられていた。1955年、そんなアラバマ州で一つの事件が起こる。街を走るバスの車内で白人専用席に座り、白人に席を譲らなかったとして、黒人女性のローザ・パークスが逮捕されたのである。その4日後、キング牧師と仲間はバスの乗車を拒否するボイコット運動を展開する。運動を唱えたキング牧師は地元警察に逮捕され、自宅が爆破されるなど激しい妨害を受けたが、非暴力での戦いを貫いた。そして、1年後には連邦最高裁判所がバス車内の人種隔離は違憲だとする判決を下す。これにより、黒人たちも白人同様にバスを利用できるようになった。
1963年春、キング牧師はさらなる差別の撤廃を目指して大規模なデモを計画した。キング牧師はガンジーに倣い非暴力でのデモを展開したが、州政府は消防用の高圧放水や警察犬を使い容赦なくデモ参加者たちを排除する。それでも抵抗しないデモ参加者たちの姿は、メディアを通じて全米に報じられた。それから3か月後の1963年8月28日、20万を超える人々がワシントンに集結する。後に「ワシントン大行進」と呼ばれるこのデモ行進には多くの白人も参加しており、その中にはデビューしたばかりの新人歌手、ボブ・ディランの姿もあった。彼はそこで、生涯忘れられない演説を聞いた。「私には夢がある。それはいつの日か、私の4人の幼い子どもたちが肌の色ではなく、人間性によって評価される国に住むという夢である。今日、私には夢がある。いつの日か、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹のように手をつなげるようになるという夢である」。この演説の翌年、人種差別を禁止される公民権法が制定される。キング牧師はその後も、根強く残る差別や自身に向けられる敵意やと非暴力で戦いながら全米を回った。しかし、その戦いも志半ばで凶弾により終わりを迎える。1968年4月4日、白人の男によって放たれた弾丸により、キング牧師は帰らぬ人となったのである。それでも、キング牧師の遺したものが忘れられることはなかった。人々はキング牧師が最後に計画したデモ行進「貧者の行進」を実行に移して黒人の貧困根絶を訴え、ボブ・ディランは楽曲「They Killed Him」でキング牧師の偉業を称えて死を悼んだ。
キング牧師の死から15年後の1983年8月、非暴力で戦おうとした1人の政治家が亡命先のアメリカから母国・フィリピンに戻ろうとしていた。11年に渡り独裁を続けていたマルコス大統領に反旗を翻した民主化活動家、ベニグノ・アキノである。独裁と戦う術を模索していたアキノはガンジーの生涯からそのヒントを得た。アキノはガンジーと同じ非暴力での戦いを志し、帰国後に支持者と共にマニラまで行進を行って大統領と対話しようと考えたのである。デモには日本とアメリカのメディアを招待し、行進の様子を撮影するように頼んでいたアキノ。しかし、彼がその計画を実行に移すことはできなかった。空港に降り立った機内に入り込んできた兵士によって銃撃され、暗殺されたのである。この死によってフィリピンの人々はマルコス退陣を求める動きを爆発させ、3年の1986年には首都・マニラで大規模なデモが展開される。マルコスは軍を派遣して鎮圧しようとしたが、非暴力を貫く市民たちの姿に感化された軍人たちもマルコスに反旗を翻す事態となる。こうしてマルコスはフィリピン脱出を余儀なくされ、独裁政権は崩壊。後任の大統領として人々が選んだのは、アキノの妻、コラソン・アキノだった。自由を手にした母国の姿を見ることなく旅立ったアキノは生前、計画していたデモで次のような演説を行う予定だったという。「ガンジーによれば、罪のない人々の自発的な犠牲は横暴な専制政治に対する最も強力な答えなのだという。私は亡命から、不確かな未来へと決意と信念だけを携えて戻る」。
フィリピンが独裁から解放された2年後の1988年、軍事政権下のミャンマーでも非暴力で戦う人々が現れた。民主化を求めて学生たちが決起したのである。政府は彼らを実弾によって排除したが、その暴虐に1人の女性が敢然と立ち向かった。ミャンマー建国の父と称えられる将軍アウン・サンの娘、アウン・サン・スー・チーである。スー・チーは父の死後にインドへ渡り、ガンジーの愛弟子であったネルーと家族ぐるみで交流する中でガンジーのを教えを学んでいた。スー・チーはガンジーの教えに倣い、民主化運動を封じ込めようとしていた母国の軍事政権に非暴力で立ち向かうことを決める。禁止されていた5人以上での集会を自ら開催して軍と渡り合うスー・チーの影響力は絶大なものとなり、危機感を抱いた軍政府は彼女を自宅軟禁下に置いた。こうした妨害を受けてなお、断食によって非暴力の抵抗を続けるスー・チーの姿を海外のメディアは繰り返し称え、1991年にはノーベル平和賞を受賞する。2010年にようやく自宅軟禁から解放されたスー・チーは5年後の総選挙で圧倒的な勝利を収め、2020年の選挙でも圧勝。事実上の最高指導者となったスー・チーはミャンマーの民主化に向けて動き出そうとしたが、2021年2月に軍がクーデターを起こしたことで再び囚われの身となってしまう。人々はサボタージュを展開してスー・チーの開放を訴えたが、軍は実弾によって市民たちの運動を鎮圧。非暴力での戦いに限界を感じた人々の中には武器を手にする者も現れ、ミャンマーでは独裁との戦いが泥沼化しながら続いている。民主化の希望となっていたスー・チーも未だ刑務所に収監されたままだ。
ガンジーが生まれたインドは現在、世界一の人口と世界5位のGDPを記録する大国となった。だが、経済成長の裏ではナショナリズムが台頭し宗教対立が加速している。それに裏打ちされて軍事力も肥大化を続け、今やインドは世界4位の軍事大国だ。かつてインドの人々を団結させ、イギリスの弾圧に立ち向かったマハトマ・ガンジー。ヒンドゥー教とイスラム教の垣根を超えて集まった100万人以上の人々に見送られてガンジスへと旅立った彼は、かつてこう語っていた。「私の胸の内には、激しい痛みのほか何もありません。かつて、私の言葉になら何にでも人々が従った時代がありました。しかし今、私の声は孤独です。憎悪と殺戮が世界を覆う限り、私は生きていられません。ですから、この狂気を捨て去るようあなたに懇願するのです」。

他にもこんな番組で紹介されています…

2023年12月18日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀 バタフライエフェクト)
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