石川・町野町では能登半島地震により、6つの道路が寸断されていた。39の地区が点在し、住民の半数が65歳を超えている。取材班は応急復旧した県道を利用し、若桑地区へ到着した。浅田一弘氏(52)は自動車整備工場を営んでいたが、再建は絶望的だった。自宅も全壊し、妻の輝美さん、愛犬と事務所で寝泊まりしていた。上谷衛氏(59)は自宅が住めなくなり、農業も影響を受けたなか、期限付きで区長を引き受けた。父の庄司氏(81)も元区長で、地域の特産品にしようとアスパラガスの栽培に着手した実績がある。浅田氏は24歳の時、輝美さんと結婚し、10年前、勤務先の工場の社長から「後を継がないか?」と打診された。子供を食べさせるためと承諾し、24年は工場のローンを払い終え、息子が専門学校を卒業する年だった。
3月、浅田氏のもとに、一時帰宅した人などからタイヤ交換の依頼が舞い込んだ。町野町では仮設住宅の建設が進み、浅田夫妻は移り住むことを決断。浅田氏は「何のための10年やったか」、「10年間でこれだけやれた」と思うか悩む一方、輝美さんは「充実してた」と話す。能登では江戸時代からキリコ祭りが行われ、各地区が自慢のキリコを披露する。庄司氏は伝統行事を守り立ててきた1人。若桑地区では祭りの最後、中心部の神社でピークを迎えるが、地震で原型を留めていなかった。庄司氏、妻の智恵子さんは農業用ハウスでトルコキキョウを植えていた。花言葉は”希望”。5か月後、アスパラガスは収穫の時を迎え、キキョウも開花した。キリコ祭りの開催に向けた話も進んでいた。
若桑地区は豪雨災害に見舞われ、庄司氏、智恵子さんの農業用ハウス、畑には土砂が流れ込んでいた。浅田氏は周囲に「若桑を離れる」と口にしていた。11月、町野町全地区の住民を対象に復興方針が説明され、市長は市街地への集団移転という案を提示した。浅田氏は若桑での最後の仕事を終え、12月には息子の晃汰さんが金沢に構えた家に移り、職探しをするという。一方、上谷家では畑を修復する方法が話し合われていた。それは、若桑で生活を続けることを意味していた。地域の住民からの期待に仕事で応えてきた浅田氏は引っ越しの準備を終え、地区を後にした。若桑には7人が残った。
3月、浅田氏のもとに、一時帰宅した人などからタイヤ交換の依頼が舞い込んだ。町野町では仮設住宅の建設が進み、浅田夫妻は移り住むことを決断。浅田氏は「何のための10年やったか」、「10年間でこれだけやれた」と思うか悩む一方、輝美さんは「充実してた」と話す。能登では江戸時代からキリコ祭りが行われ、各地区が自慢のキリコを披露する。庄司氏は伝統行事を守り立ててきた1人。若桑地区では祭りの最後、中心部の神社でピークを迎えるが、地震で原型を留めていなかった。庄司氏、妻の智恵子さんは農業用ハウスでトルコキキョウを植えていた。花言葉は”希望”。5か月後、アスパラガスは収穫の時を迎え、キキョウも開花した。キリコ祭りの開催に向けた話も進んでいた。
若桑地区は豪雨災害に見舞われ、庄司氏、智恵子さんの農業用ハウス、畑には土砂が流れ込んでいた。浅田氏は周囲に「若桑を離れる」と口にしていた。11月、町野町全地区の住民を対象に復興方針が説明され、市長は市街地への集団移転という案を提示した。浅田氏は若桑での最後の仕事を終え、12月には息子の晃汰さんが金沢に構えた家に移り、職探しをするという。一方、上谷家では畑を修復する方法が話し合われていた。それは、若桑で生活を続けることを意味していた。地域の住民からの期待に仕事で応えてきた浅田氏は引っ越しの準備を終え、地区を後にした。若桑には7人が残った。