1年間に1万4000隻の船舶が航行するパナマ運河。この全長80kmの運河は大西洋と太平洋の往来を可能にした画期的な代物だ。パナマに運河を通すという壮大な計画に挑んだ最初の挑戦者はフランスで、19世紀末に工事をスタートさせた。しかし、難工事と熱帯の感染症が猛威を振るい、計画は挫折を余儀なくされる。フランスの撤退により計画は実現不可能な夢物語と見做されたが、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトはそう考えなかった。アメリカは1889年に勃発した米西戦争で戦場となったキューバに太平洋艦隊を送り込むのに苦心した経験があり、ルーズベルトはアメリカの繁栄にはパナマ運河が必要不可欠だと考えたのである。こうして1904年にパナマ運河建設は再開される。険しいパナマの山々を切り崩して80kmの運河を通すという大計画には大量のダイナマイトと蒸気ショベルが投入され、土砂の運搬用に鉄道も整備された。過酷な作業に従事する労働者には高額の賃金が支払われ、世界中の人々がパナマに集まった。しかし、断層が複雑で土砂崩れが頻発したクレブラ山地での工事は危険を極め、作業員たちは命を落とすことも多かった。こうした苦難の末、1913年10月10日に運河は遂に開通する。10年3ヶ月と5609人の犠牲者、3億5000万ドルを費やして完成したパナマ運河は文字通りに新たな世界への扉を開いた。さらに、運河は第二次世界大戦でアメリカ軍が戦力を世界中に短期間で配備する原動力ともなり、アメリカを覇権国家へと押し上げる大きな役割を担ったのである。
19世紀末、ロシアでは世界最長の距離を繋ぐ鉄道の建設が始まった。モスクワとウラジオストクを繋ぐ、全長9300kmのシベリア鉄道である。アジアとの交易や資源確保を目的としたこの鉄道は帝政ロシアによって考案され、25年の歳月を費やした後の1916年に開通を果たす。しかし、その翌年に帝政ロシアは二月革命によって崩壊。内戦状態に陥ったロシア国内で、レーニン率いるボリシェヴィキはシベリア鉄道を駆使して東部へと支配地域を拡大させていった。内戦に置いてシベリア鉄道の駅や線路は重要な拠点となり、ここを抑えたボリシェヴィキは内戦で勝利を果たす。1922年にソビエト連邦が誕生すると、新たな指導者となったスターリンはシベリア鉄道の支線建設に着手した。支線の建設は各地の農産物や鉱物を輸送するための流通網を整備することが目的だったが、それに加えて文化の異なる様々な民族に同じ作業を行わせることで国家への忠誠心を確保するという狙いもあった。シベリアでは1932年に満州国を建国した日本への警戒から新たな路線「バム鉄道」も建設されたが、過酷なシベリアでの作業に従事したのは政治犯や日本の戦争捕虜たちだった。こうした犠牲の末にバム鉄道は1984年に開通し、シベリアの貴重資源を輸送する路線としてソビエトの経済を支えた。
第二次世界大戦の終結後、敗戦国となった日本では電力不足が深刻化していた。この状況を打開するため、復興をかけて巨大工事として行われたのが黒部ダムの建設である。計画は北アルプスの黒部峡谷に水力発電用の巨大ダムを建設するという壮大なものだったが、現場は人跡未踏の断崖絶壁という過酷な環境だった。ダム建設に必要な資源や重機は現場に巨大なトンネルを掘って運び込むことになったが、北アルプスの雪解け水によって度々引き起こされる落盤が作業員たちを苦しめた。作業員たちは溢れ出る水が凍りつく冬季に作業を進め、1958年2月25日にトンネルはようやく貫通する。このトンネルを通じて建設資材が届けられ、1961年に黒部ダムは発電を開始。171人の犠牲者を出しながらも世紀の難工事を果たした日本はその後、高度経済成長期へと踏み出していく。
高度経済成長の只中、1964年には北海道と本州を繋ぐ青函トンネルの工事が始まった。「船の墓場」と恐れられた津軽海峡の下に長さ54kmのトンネルを通すという巨大工事に、技術者たちは土木立国の威信を胸に最新技術を総動員して挑んだ。しかし、1000m先の地質を早期に調査する水平ボーリングや岩盤を補強する注入工法、霧状にしたコンクリートを吹き付けて岩盤を固める吹付コンクリートといった自慢の技術も自然の猛威の前には無力だった。海底の凄まじい圧力や出水に悩まされ、工期が遅れるうちに工事を断念すべきという声も浮上する。しかし、技術者たちはそれでも挑戦を続けた。こうして21年の歳月と6900億円の費用を費やして開通した青函トンネルは北海道の物流を支える存在となり、2016年には新幹線が開通。北海道と本州を繋げる大きな役割を担っている。
一方、ヨーロッパでは200年もの間実現できなかった工事があった。イギリスとフランスの間を隔てる英仏海峡の下にトンネルを通すという巨大工事である。イギリスを大陸の一部に招き入れようとするフランスはナポレオンの時代からこの工事を計画していたが、島国として大陸から距離を置こうとするイギリスは度々この計画に反対してきた。長らく続いてきたこの状況を打開したのが、イギリス首相に就任したマーガレット・サッチャーである。ヨーロッパ大陸の国々が段階的な国境や関税の撤廃を進めていた1980年代、サッチャーは国際競争力を失いつつあったイギリスの経済を立て直すべく計画の実現に向けて動き出した。1987年に始まった工事には最新鋭のシールドマシンが投入され、トンネルは4年後の1991年6月に開通を果たす。その2年後にはEUが創設され、大陸からもたらされる安価な労働力によってイギリス経済は息を吹き返した。しかし、「アラブの春」をきっかけにヨーロッパに難民が訪れるようになると、英仏海峡トンネルは再び批判に晒される。イギリスのEU離脱後、英仏海峡トンネルでは再び入国審査が行われることになり、イギリスはヨーロッパの一員から島国へと回帰したのである。
21世紀になると、世界を繋げるためにインターネットが用いられるようになった。情報の伝達に用いられるのは、19世紀から用いられてきた海底ケーブルだ。電信用のケーブルは電話線へと進化し、1980年代には光ファイバーの登場によって劇的な進歩を果たす。大量の情報を瞬時に伝達出来る光ファイバーは巨大な電脳空間を生み出し、それを下支えするために140万kmに及ぶ海底ケーブルが世界中に張り巡らされた。幾重にも張り巡らされたケーブルは東日本大震災といった災害にも耐えうるものとして文字通りに世界中を繋げたが、それは同時に巨大な監視網が完成したことを意味していた。
21世紀に入ってもなお、巨大工事は世界中で行われている。ロシアではバム鉄道の工事が現在も続けられ、世界の物流拠点となったパナマ運河では拡張工事が行われた。2050年にはさらなる新天地、宇宙と繋がるための巨大工事、宇宙エレベーター構想も実現する予定だが、歴史学者・ユヴァル・ノア・ハラリは次のように語っている。「今日、世界ではつながることによる”調和”と同時に”争いの火種”となる出来事も起こっている。あらゆるものを”つなぐ”選択肢が我々に豊かな社会をもたらしてくれるのは間違いない。ただし、資産や資源を奪うために自分の利益だけを考えて行動するか、世界をつなぐために助け合う手段にするか、その選択が未来を決めていくのである」。
19世紀末、ロシアでは世界最長の距離を繋ぐ鉄道の建設が始まった。モスクワとウラジオストクを繋ぐ、全長9300kmのシベリア鉄道である。アジアとの交易や資源確保を目的としたこの鉄道は帝政ロシアによって考案され、25年の歳月を費やした後の1916年に開通を果たす。しかし、その翌年に帝政ロシアは二月革命によって崩壊。内戦状態に陥ったロシア国内で、レーニン率いるボリシェヴィキはシベリア鉄道を駆使して東部へと支配地域を拡大させていった。内戦に置いてシベリア鉄道の駅や線路は重要な拠点となり、ここを抑えたボリシェヴィキは内戦で勝利を果たす。1922年にソビエト連邦が誕生すると、新たな指導者となったスターリンはシベリア鉄道の支線建設に着手した。支線の建設は各地の農産物や鉱物を輸送するための流通網を整備することが目的だったが、それに加えて文化の異なる様々な民族に同じ作業を行わせることで国家への忠誠心を確保するという狙いもあった。シベリアでは1932年に満州国を建国した日本への警戒から新たな路線「バム鉄道」も建設されたが、過酷なシベリアでの作業に従事したのは政治犯や日本の戦争捕虜たちだった。こうした犠牲の末にバム鉄道は1984年に開通し、シベリアの貴重資源を輸送する路線としてソビエトの経済を支えた。
第二次世界大戦の終結後、敗戦国となった日本では電力不足が深刻化していた。この状況を打開するため、復興をかけて巨大工事として行われたのが黒部ダムの建設である。計画は北アルプスの黒部峡谷に水力発電用の巨大ダムを建設するという壮大なものだったが、現場は人跡未踏の断崖絶壁という過酷な環境だった。ダム建設に必要な資源や重機は現場に巨大なトンネルを掘って運び込むことになったが、北アルプスの雪解け水によって度々引き起こされる落盤が作業員たちを苦しめた。作業員たちは溢れ出る水が凍りつく冬季に作業を進め、1958年2月25日にトンネルはようやく貫通する。このトンネルを通じて建設資材が届けられ、1961年に黒部ダムは発電を開始。171人の犠牲者を出しながらも世紀の難工事を果たした日本はその後、高度経済成長期へと踏み出していく。
高度経済成長の只中、1964年には北海道と本州を繋ぐ青函トンネルの工事が始まった。「船の墓場」と恐れられた津軽海峡の下に長さ54kmのトンネルを通すという巨大工事に、技術者たちは土木立国の威信を胸に最新技術を総動員して挑んだ。しかし、1000m先の地質を早期に調査する水平ボーリングや岩盤を補強する注入工法、霧状にしたコンクリートを吹き付けて岩盤を固める吹付コンクリートといった自慢の技術も自然の猛威の前には無力だった。海底の凄まじい圧力や出水に悩まされ、工期が遅れるうちに工事を断念すべきという声も浮上する。しかし、技術者たちはそれでも挑戦を続けた。こうして21年の歳月と6900億円の費用を費やして開通した青函トンネルは北海道の物流を支える存在となり、2016年には新幹線が開通。北海道と本州を繋げる大きな役割を担っている。
一方、ヨーロッパでは200年もの間実現できなかった工事があった。イギリスとフランスの間を隔てる英仏海峡の下にトンネルを通すという巨大工事である。イギリスを大陸の一部に招き入れようとするフランスはナポレオンの時代からこの工事を計画していたが、島国として大陸から距離を置こうとするイギリスは度々この計画に反対してきた。長らく続いてきたこの状況を打開したのが、イギリス首相に就任したマーガレット・サッチャーである。ヨーロッパ大陸の国々が段階的な国境や関税の撤廃を進めていた1980年代、サッチャーは国際競争力を失いつつあったイギリスの経済を立て直すべく計画の実現に向けて動き出した。1987年に始まった工事には最新鋭のシールドマシンが投入され、トンネルは4年後の1991年6月に開通を果たす。その2年後にはEUが創設され、大陸からもたらされる安価な労働力によってイギリス経済は息を吹き返した。しかし、「アラブの春」をきっかけにヨーロッパに難民が訪れるようになると、英仏海峡トンネルは再び批判に晒される。イギリスのEU離脱後、英仏海峡トンネルでは再び入国審査が行われることになり、イギリスはヨーロッパの一員から島国へと回帰したのである。
21世紀になると、世界を繋げるためにインターネットが用いられるようになった。情報の伝達に用いられるのは、19世紀から用いられてきた海底ケーブルだ。電信用のケーブルは電話線へと進化し、1980年代には光ファイバーの登場によって劇的な進歩を果たす。大量の情報を瞬時に伝達出来る光ファイバーは巨大な電脳空間を生み出し、それを下支えするために140万kmに及ぶ海底ケーブルが世界中に張り巡らされた。幾重にも張り巡らされたケーブルは東日本大震災といった災害にも耐えうるものとして文字通りに世界中を繋げたが、それは同時に巨大な監視網が完成したことを意味していた。
21世紀に入ってもなお、巨大工事は世界中で行われている。ロシアではバム鉄道の工事が現在も続けられ、世界の物流拠点となったパナマ運河では拡張工事が行われた。2050年にはさらなる新天地、宇宙と繋がるための巨大工事、宇宙エレベーター構想も実現する予定だが、歴史学者・ユヴァル・ノア・ハラリは次のように語っている。「今日、世界ではつながることによる”調和”と同時に”争いの火種”となる出来事も起こっている。あらゆるものを”つなぐ”選択肢が我々に豊かな社会をもたらしてくれるのは間違いない。ただし、資産や資源を奪うために自分の利益だけを考えて行動するか、世界をつなぐために助け合う手段にするか、その選択が未来を決めていくのである」。