TVでた蔵トップ>> キーワード

「ノーベル平和賞」 のテレビ露出情報

ノーベル平和賞に選ばれた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会。授賞理由についてノーベル委員会は「核なき世界の実現のための努力と核兵器が二度と使われてはならないことを証言を通じて示した」ことや「核兵器が歴史上最も破壊的な兵器であることを思い起こす価値がある」としている。日本被団協は広島、長崎への原爆投下による被爆者の組織で長年にわたり核兵器廃絶を世界に訴えてきた。一昨年にはデジタル技術を使って核兵器の悲惨さを伝える企画展を米国・ニューヨークで開催。去年12月には米国で開かれた核兵器禁止条約の締約国会議にも参加した。ただ、核保有国が参加していないことなどから日本は参加を見送り。2016年、オバマ元大統領が現職大統領として初めて被爆地を訪れた際には当時、代表委員だった坪井直さんが固い握手を交わした。ウクライナのゼレンスキー大統領も出席した去年のG7広島サミットを見守った際、現代表委員の箕牧さんは「核兵器のない平和な世界を続けていくような努力をみなさんしてくださいと訴えたい」と語っていた。ノーベル平和賞で日本人や団体が対象になったのは1974年以来2度目。最初の受賞は「核兵器を持たず、作らず持ち込ませず」という非核三原則を提唱した佐藤栄作元総理大臣だった。同じく核兵器廃絶に向けた取り組みで50年ぶりの受賞となった今回。各地から喜びの声が上がっている。被爆地の広島市・松井一実市長が強調したのは今回選ばれた意義について。長崎市の鈴木史朗市長は「世界が大きく舵を切る契機となることを心より期待しております」などと述べた。石破総理は訪問していたラオスでコメントを発表。2017年にノーベル平和賞を受賞したICAN=核兵器廃絶国際キャンペーンはSNSを更新。また、国連のグテーレス事務総長も声明で功績をたたえた。79年前、広島と長崎で被爆した人の数は54万人以上。被爆者の高齢化が進み現在はおよそ10万7000人。平均年齢は85歳を超えた。
今、まさに世界で高まる核の脅威。ウクライナと戦闘を続けるロシアは核兵器を使用する可能性をちらつかせ、北朝鮮は核開発を続ける方針を示している。そして、多くの民間人が犠牲になる戦闘は今も続いている。イスラエルとイスラム教シーア派組織ヒズボラによる戦闘が続くレバノン。イスラエルは10日もレバノンの首都を攻撃し、レバノン保健省は22人が死亡、117人がけがをしたと発表した。また、同じく戦闘が続くパレスチナ自治区ガザ地区では避難所となっていた学校がイスラエル軍に空爆を受け少なくとも28人が死亡。さらにウクライナとロシアの戦闘も終わりが見えていない。こうした世界情勢を受け平和賞授与を見送るべきだとの声も上がっていたという今年のノーベル平和賞。授賞式は今年12月ノルウェーのオスロで行われる。東海大学 文化社会学部・羽生浩一教授は「色あせないようにメッセージが弱くならないよう伝えていく責務がある」などと述べていた。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年6月19日放送 5:00 - 6:00 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(ニュース)
日本被団協は去年12月のノーベル平和賞受賞後はじめてとなる定期総会を開き、国際情勢が緊迫する中、核兵器廃絶などを国内外で訴えていくことを改めて確認した。イスラエルとイランの軍事衝突を受けて17日に声明を発表し「核施設への攻撃は絶対に許されない」などと訴えている。

2025年6月18日放送 19:00 - 19:30 NHK総合
NHKニュース7(ニュース)
日本被団協は去年12月のノーベル平和賞受賞後はじめてとなる定期総会を開き、国際情勢が緊迫する中、核兵器廃絶などを国内外で訴えていくことを改めて確認した。イスラエルとイランの軍事衝突を受けて17日に声明を発表し「核施設への攻撃は絶対に許されない」などと訴えている。

2025年6月18日放送 18:00 - 18:10 NHK総合
ニュース(ニュース)
日本被団協は去年12月にノーベル平和賞を受賞してから初めてとなる定期総会を開き、国際情勢が緊迫化する中、核兵器の廃絶などを国内外で訴えていくことを改めて確認した。

2025年6月13日放送 16:05 - 17:00 NHK総合
午後LIVE ニュースーンNEWS日替わりプレート
長崎県で被爆し93歳の今も核兵器を廃絶するために活動を続ける日本被団協の田中煕巳さんを迎えたNHKアカデミアのオンライン収録が行われる。田中さんへの直接質問も可能となっていて、収録日時は6月27日・収録の応募は6月15日午後11時59分までとなっている。

2025年6月12日放送 23:50 - 0:35 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀 バタフライエフェクト)
佐々木禎子は被災当時2歳で、爆心地から1.6kmの自宅で母たちと暮らしていたという。一家は太田川から避難しようとしたが、そこに放射性物質を含んだ黒い雨が降ってきた。両親は生活の再建を行っていき、佐々木禎子は大きな病気をすることなく小学生になった。一方で広島駅から近い場所にいたのが中村節子だ。中村節子は陸軍施設で暗号解読の手伝いをしていたという。中村節子は原爆[…続きを読む]

© 2009-2025 WireAction, Inc. All Rights Reserved.