コンペには当時57歳の戦前から手腕を発揮していた建築家の村野藤吾の姿も。審査で丹下の設計案がその斬新な外観で目を引いた。しかし結果は丹下が2等で前川が3等。1等は該当なしとしたがラサール神父たちが難色を示した。提示したテーマに沿っていないと選ばなかったがその建設の話は審査員の村野藤吾に一任すると言ってきた。村野はデパートなどの商業建設を数多く手掛けながら独特なスタイルを貫いた。1963年に完成した日生劇場では、波打つ天井に貝殻を散りばめてまるで生き物の体内にいるかのような建築を作り出した。芸術性などを両立させる作風で知られている。後に村野の代表作にもなった聖堂の設計。しかし最初は迷っていた。村野を研究している松隈洋さんはあろうことかコンペを開いたのにも拘わらず一等が出なかった上にその審査員が建築を担当するというのは何を言われるかわからないと語り、また神父たちからあなたにしかできないと言われ、その気持ちを汲むと覚悟を決めたはずだと語る。しかし何度設計図を書き直しても教会側に提出しても色よい返事はでなかった。最後にやめる決心でもっていったものが採用された。