2024年8月10日放送 22:00 - 22:30 テレビ東京

新美の巨人たち
【Artで願う平和の旅(1) 広島「世界平和記念聖堂」】

出演者
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(オープニング)
今回は…

今回は広島の世界平和記念聖堂を西田尚美が巡る。

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パリオリンピックパリ(フランス)世界平和記念聖堂丹下健三広島平和記念公園
オープニング

オープニング映像。

新美の巨人たち
ARTで願う平和の旅 広島の夏 記憶に刻む

原爆ドームから20分ほどの場所に広島出身の西田尚美がやってきた。

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幡町(広島)広島平和記念碑(原爆ドーム)
広島「世界平和記念聖堂」×西田尚美 伝統建築に意外なデザイン

世界平和記念聖堂は1954年の8月6日にいまから70年前の広島原爆の日に竣工した聖堂で、国の重要文化財にもなった。巨大な十字架のかかる聖堂は三階建てで、左にそびえるのは高さ45mの鐘塔で、その中には4つの平和の鐘が備えられている。ザラッとした煉瓦が仕上げを忘れたままに積み上げられたような手作りの質感で、それがこの建築最大の特徴。まずは大聖堂の中へ。祈りを捧げる広大な空間が広がっていて、中心には身廊があり、両脇に側廊が通り、三廊式バジリカ型。カトリック教会の伝統的なつくりを忠実に踏襲している。祭壇の背後になるのはキリストのモザイク画。側廊の壁の窓にはキリストの生涯をあらわしたステンドグラスが。西田は蓮の花のデザインが何故か明かりの飾りになっている。ステンドグラスの形も外からみると松の文様のようで西洋建築のようで違和感が至るとことにある。

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広島「世界平和記念聖堂」復興を願う神父の覚悟

この場所には明治の末からカトリックイエズス会の小さな和風の教会が建っていた。しかし1945年の8月6日に原爆が投下され、その教会の焼け後に呆然と建っていた神父。被爆するも奇跡的に一命をとりとめたドイツ人のフーゴ・ラサール神父。戦後、ラサール神父はバチカンに向かいピオ12世に謁見した。平和のシンボルともなる聖堂を、広島の地に建設するためでその賛同をとりつけるためだった。ラサール神父はヨーロッパ各地はもとよりアメリカ大陸に足を伸ばし聖堂建設の意義を訴え続けた。当時の金額で6000万円にも上る寄付を集めた。

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広島「世界平和記念聖堂」戦後初の設計コンペ

1948年に世界平和記念聖堂建設の為に戦後初の設計コンペが開催された。その趣旨はモダンで日本的で宗教的。記念的を調和させるような建物としていた。これに当時若手の注目株だった丹下健三、モダニズム建築の巨匠の前川國男など、戦時中は不遇を囲っていた建築家たちがこぞって参加し審査員はラサール神父らイエズス会は中心だった。

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広島「世界平和記念聖堂」建築家・村野藤吾の奮闘

コンペには当時57歳の戦前から手腕を発揮していた建築家の村野藤吾の姿も。審査で丹下の設計案がその斬新な外観で目を引いた。しかし結果は丹下が2等で前川が3等。1等は該当なしとしたがラサール神父たちが難色を示した。提示したテーマに沿っていないと選ばなかったがその建設の話は審査員の村野藤吾に一任すると言ってきた。村野はデパートなどの商業建設を数多く手掛けながら独特なスタイルを貫いた。1963年に完成した日生劇場では、波打つ天井に貝殻を散りばめてまるで生き物の体内にいるかのような建築を作り出した。芸術性などを両立させる作風で知られている。後に村野の代表作にもなった聖堂の設計。しかし最初は迷っていた。村野を研究している松隈洋さんはあろうことかコンペを開いたのにも拘わらず一等が出なかった上にその審査員が建築を担当するというのは何を言われるかわからないと語り、また神父たちからあなたにしかできないと言われ、その気持ちを汲むと覚悟を決めたはずだと語る。しかし何度設計図を書き直しても教会側に提出しても色よい返事はでなかった。最後にやめる決心でもっていったものが採用された。

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広島「世界平和記念聖堂」細部に秘めた意思

もっとも力を注いだのは伝統的な教会建築と日本的なモダンさとその両立。聖堂の中は、側廊のアーチがいかにもな教会らしい雰囲気を醸し出している。しかし細部をみていくと祭壇の背景にあるステンドグラスは日本の伝統的な梅の花の文様があり、地下聖堂の壁も五弁の花が。窓には丸を横に重ねた州浜と呼ばれるデザインが元になっている。村野は日本の伝統をモダンにアレンジしいたるところに散りばめている。もっとも日本的なものに、村野は平等院鳳凰堂にあるような鳳凰をつけたいと言い出し、その飾りをとりつけたが不死鳥のように広島を復興していこうという象徴としてつけたかったもの。さらに村野のこだわりは聖堂の階段の手すり。手を触れる部分への細かい気配りがされている。洗礼堂の格子戸は、面取りを施して柔らかな手触りに。見えない部分にもこだわり、美しさは細部に宿るが建築家・村野藤吾の教示だった。

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広島「世界平和記念聖堂」建設が危機に直面

教会の建設は順風満帆とは言えなかった。

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広島「世界平和記念聖堂」建設資金の危機

広島市にある世界平和記念聖堂は1950年に朝鮮戦争の特需で資材の価格が高騰し、そのあおりで建設資金が底をついて工事中断を余儀なくされた。ラサール神父は寄付を募る行脚を行ったが、その姿を偶然に目にしていた。その姿に協力してあげたいと建設にかかる報酬を受け取らないと決意。さらに建設資金を抑える途方もない手段を考えた。

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広島「世界平和記念聖堂」究極の節約!現場で手作り

一級建築士で、聖堂の修復にも関わった青葉さんは、壁のレンガに秘密があるという。レンガの中は一部空洞になっていてこれは広島の川の砂で現場で労働者がこの型を作った。本来レンガは工場に発注して大量につくるものだが村野は一つずつ現場で手作りした。他にも鉄筋コンクリートの窓枠もえ現場で制作し、屋根の骨組みはかき集めた鉄骨を現場で継ぎ合わせた。ドーム屋根の鳳凰もモルタルで成形し、漆と金箔で手作りした。まるで指でこそいだかのような目地の粗い仕上げもこだわり。わざと荒々しいままに豊かな陰影を施した。こうして人のぬくもりが聖堂に命を吹き込んだ。

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広島「世界平和記念聖堂」世界から寄せられた願い

世界平和記念聖堂のパイプオルガンは同じ敗戦国のドイツから贈られた。他にも洗礼盤や、平和の鐘なども聖堂の建設を知ったヨーロッパやアメリカなど無償で届けられた。正面の入口につけられた扉はドイツのデュッセルドルフから。内側には平和への門は隣人愛なりと刻まれている。そして1954年に聖堂は竣工し、戦後に日本に帰化し広島から世界の平和を願い続けたラサール神父はよくもまあ建ったものだと漏らした。1956年に世界平和記念聖堂 は日本建築学会賞を受賞した。大勢の苦労は報われた。

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フーゴ・ラサール世界平和記念聖堂村野藤吾

戦後79年にいまも変わらず平和への祈りが捧げられている世界平和記念聖堂。村野はこの聖堂についてこの建物は使う人たちが数十年にわたって愛情をこめて使うことで設計が終わりそれで初めて建築になると話していた。

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(エンディング)
次回予告

「新美の巨人たち」の次回予告。

(番組宣伝)
スポーツ リアライブ

「スポーツ リアライブ」の番組宣伝。

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