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「ミハイル・ゴルバチョフ」 のテレビ露出情報

1968年4月11日。西ベルリンで1人の若者が3発の銃弾を浴び、脳に重い後遺症を負った。撃たれたのは学生運動を率いていたルディ・ドゥチュケという男で、彼は仲間と共にベトナム戦争を続けるアメリカに対し激しい抗議運動を行っていた。だが、彼らの血気盛んな振る舞いは大人たちにとってかつてのナチスを想起させるものに他ならず、大手新聞社や大人たちはドゥチュケや学生たちに対して激しく非難するキャンペーンを展開。ドゥチュケが銃撃を受けたのはそんな最中の出来事で、銃撃犯はドゥチュケを非難する過激な見出しが踊る新聞を携えていたという。
ドゥチュケが銃撃を受けたというニュースは壁を隔てた東ベルリンにも届き、そこでは事件に怒る歌「ルディ・ドゥチュケに3発の銃弾」が生まれた。この曲を歌った詩人、ヴォルフ・ビーアマンは社会主義に傾倒して西ドイツから東ドイツに移住したものの、東ドイツの政治体制に失望し度々政府批判を展開していた人物だった。ビーアマンは度重なる政治批判によって「国家の敵」とみなされ厳しい扱いを受けていたが、そうした扱いは再婚相手の連れ子である義理の娘にまで及ぶ。わずか9歳で「国家の敵」となった少女の名は、ニナ・ハーゲンといった。
ビーアマンの怒りは再び壁を超え、西側へと逆流していった。西ベルリンでは若者たちがドゥチュケの銃撃に対する抗議活動を展開し、ドゥチュケを中傷した新聞社を襲撃。警官隊は放水車や警棒で若者たちを鎮圧したが、その様子はテレビカメラによって捉えられていた。実用化されたばかりの衛星回線で世界中に報じられたドイツの若者たちの怒りは、やがて世界中の同世代から共感を集めていく。パリでは若者たちが大学制度の改革を求めて警官隊に投石し、ニューヨークではコロンビア大学の学生たちが軍事研究の停止を求めてキャンパスを占拠。ロンドンではアメリカ大使館に向けて行進するデモ隊と警官隊が睨み合い、新宿では米軍の燃料を運ぶ貨物列車を止めようとした若者たちが国鉄新宿駅に突入した。
西側の若者たちが巻き起こした反乱はテレビやラジオの電波に乗って、鉄のカーテンを超えていく。1968年3月には社会主義国であったポーランドの学生たちが政治の民主化を求めて立ち上がった。学生たちは民主化を実現するために労働者に団結を訴えたが、労働者の中に彼らの話を聞くものは少なかった。だが、グダニスクのレーニン造船所には学生たちの話に耳を傾ける1人の電気工事士がいた。警官隊に殴られて傷を負った学生の姿に心を痛め、彼らの活動に参加することを決めた男の名は、レフ・ワレサといった。
1968年8月。ポーランドの隣国・チェコスロバキアで芽吹こうとしていた民主化運動「プラハの春」はソビエトの戦車によって鎮圧されつつあった。迫りくる戦車を前にした国営放送は世界に向けて非常事態を訴え、ラジオ局は弾圧から逃れながら電波で国民を鼓舞しつづけた。そんな中、あるラジオ局から市民に向けたメッセージが放送された。「機関銃や戦車も、人間の意思や理念には勝てません。皆さん、今は耐えるときです。共に耐えましょう。あきらめてはいけません。占領者に暴力で立ち向かわないでください。私たちには別の武器があります。それは故郷への忠誠です」。このメッセージを発した劇作家の名前は、ヴァーツラフ・ハヴェルといった。
1968年、パリの若者が警官隊に投げつけた煉瓦の音は瞬く間に世界へと鳴り響き、プラハの若者たちに丸腰で戦車に立ち向かう覚悟を与えた。衛星を使ったテレビの電波は東西の壁を超えて若者たちを団結させる原動力となった。だが、彼らが立ち向かおうとしていた権力の壁はあまりにも分厚かった。「もう私たちは離ればなれにならない。みんな一緒だ。この無数の人々の中に、私たちは力を見いだす。自分たちの力を感じる。だが、警官隊に比べて、なんて少数なんだろう……」。権力の壁に押し返された若者たちは、無力感を抱いたまま路上を去っていく。彼らの反乱の後に残ったのは、バリケードの残骸だけだった。
1989年10月7日。この日、東ベルリンでは東ドイツの建国40周年式典が行われ、18年間にわたって権力の座に君臨していたエーリッヒ・ホーネッカーが社会主義の成功を高らかに宣言する。だが、指導者の言葉とは裏腹に、市民たちの間では政権に対する怒りが限界に達していた。そのきっかけとなったのは、式典から13年前の1976年に起こった出来事だった。「ルディ・ドゥチュケに3発の銃弾」を生み出した詩人、ヴォルフ・ビーアマンが西ドイツ領内で東ドイツ政府を批判する歌を披露したとして、国外追放処分を受けたのである。国民的なミュージシャンであると同時に熱烈な社会主義者であったビーアマンさえも弾圧する政府の横暴さに、東ドイツ市民たちは強い怒りを覚えた。そんな彼らの声を代弁したのが、ニナ・ハーゲンだった。21年の時を経て義父と同じミュージシャンになっていた彼女は、東ドイツの不自由な生活を痛烈に批判した楽曲「カラーフィルムを忘れたのね」を発表し、国民的なヒットを飛ばす。だが、ビーアマンを父親として、師匠として尊敬していたニナは彼の後を追って西ベルリンへと渡る道を選ぶ。こうして、東ドイツは2人の国民的歌手を失ったのである。
1989年2月。この年の変革の口火を切る出来事がポーランドで起こった。ワルシャワで共産党幹部と労働者の代表が国家の将来について直接議論を交わすことになったのである。社会主義国家の幹部が労働者の声を直に聞くという画期的なこの会議を実現させたのは、21年前に学生たちの運動に加わった電気工事士のレフ・ワレサだった。1981年に共産党のコントロールを受けない初めての労働組合「連帯」を組織し、そのリーダーとなっていたワレサはこの会議で政府に改革を要求。交渉の末に1989年6月に戦後初の自由選挙が行われ、「連帯」が99%の議席を獲得して圧勝。こうして、ポーランドで東側陣営初の非共産党政権が生まれることとなった。
ポーランドの民主化と時を同じくして、社会主義国のハンガリーでも変革が始まっていた。財政難に直面していたハンガリーは、2年前に海外旅行が自由化されたことで意味を持たないものとなっていた西側のオーストリアへと続く国境地帯の警備を緩和することを決める。だが、この経済的な決断は全く別の形で世界に影響を与えていく。警備が緩和されたことを聞いた東ドイツの市民たちが、同じ社会主義国のハンガリーを経由して西側へと逃れるようになったのだ。それと同時に、東ドイツに残った市民の間でも改革を求める声が一気に高まっていく。1989年11月4日、東ベルリンでは50万人以上の市民が旅行の自由化や一党独裁の廃止を求めてアレクサンダー広場に集まった。移動の自由を求める彼らのシンボルとなっていたのは、13年前に国外追放されたヴォルフ・ビーアマンだった。それから5日後の1989年11月9日、東西ベルリンを隔てていた壁は遂に崩壊。この知らせを聞いたビーアマンの義娘、ニナ・ハーゲンは壁の崩壊を祝うコンサートを開催し、東西ドイツの若者の前で歌声を披露する。熱狂する彼らの前でニナが歌ったのは、父の作った曲だった。
ベルリンの壁崩壊の衝撃はドミノ倒しのように広がっていった。チェコスロバキアでは1989年11月24日に共産党執行部が辞任を表明し、無血での革命を果たす。民主化を果たした国民が大統領に選んだのは、21年前にソビエトの戦車に蹂躙されたプラハ市民に向けてメッセージを送った劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルだった。
1989年12月1日、13年の時を経て東ドイツへの帰国を果たしたビーアマンは自らを出迎える市民たちに向けてコンサートを行った。彼の歌声は東西ドイツで同時に生中継され、分断された国家の市民たちに届けられたという。それからさらに34年後の2023年、83歳になったビーアマンは自身の功績を振り返る展覧会に登場し、久々に歌声を披露する。彼の声に耳を傾ける聴衆の中には、東ドイツ出身の元ドイツ首相、アンゲラ・メルケルもいた。
1968年と1989年、激動のふたつの年を繋ぎ、チェコ大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルはこんな言葉を残している。「私たちはたとえ自分がどんなに取るに足らない存在で、無力に思えたとしても、世界を変えられると信じることができます。私、あなた、彼、彼女。全員がこの道を歩み始めなければ、世界は本当に現状のままだということです。誰かを待っていたのでは、誰も変化を見ることはできないのです」。

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