沖縄県・久米島では戦時下、日本軍は島民20人を敵国アメリカ軍のスパイとして虐殺した。戦後80年を経て初めて追悼式が行われた。上江洲教昭さんが無念の思いを持ち続けてきたのは小学校3年生の時の谷川くんのことで、一家7人全員が惨殺されたという。国内で、唯一地上戦となった沖縄戦。アメリカが久米島に上陸したのは沖縄戦が集結した3日後のこと。1000人が上陸し、山の奥深くには日本軍の壕が残る。当時久米島に駐留していた日本軍は30人ほど。島民を大量に導入し壕を掘らせて潜伏していた。隊長は海軍の鹿山正兵曹長。鹿山隊長はアメリカ軍を恐れて通達に、敵と関わった島民はスパイとみなし、処分するというものだった。島民の証言に基づいて描かれた久米島の虐殺は、アメリカ軍が上陸して3日後に牧場主や、地域の区長ら9人らが刺し殺された。アメリカ軍に聴取をうけた島民を鹿山隊に引き渡さなかったことで、連帯責任を問われ、家を焼き払われた。
鹿山隊に配属された久米島出身の仲原善助さんは、虐殺にかかわった兵士から、翌朝にこの事実を聞かされた仲原さんは手記を残していた。手記には島民9人を殺した場面とともに、日本軍を案内した人間がいたことも記されている。次にスパイ容疑をかけられたのは仲村渠明勇さん。沖縄本島でアメリカ軍の捕虜となった時に久米島への艦砲射撃するのをやめるよう直訴し、島を救った。その後、島民には投降を促した。その行為は日本軍の逆鱗に触れ、島の島民から相次ぐ密告で追手が迫る中、8月15日の終戦を迎えた3日後に、仲村渠さんは捕まり家族全員が殺害された。戦後に鹿山正兵曹長は加害の事実を認め、開き直っていたという。そして、8月20日には上江洲教昭さんの親友の谷川さんの家族が狙われた。アメリカの物を販売していたということでスパイ容疑をかけられた。家族は皆殺しにされたが隠れた場所も密告されていた。
上江洲由美子さんは島民の証言を記録し集めていたという。上江洲さんは担任の先生から亡くなる直前に打ち明けられたが、谷川一家の殺害に加担し後悔や葛藤があったと語ったという。この事件は島を分断し、今も癒えていない。教昭さんは後輩2人に思いを託し、この二人が彫刻家の金城実さんと教昭さんを結びつけた。金城実さんは沖縄戦の実相を描き続けてきた。二人は谷川一家の追悼式を行いたいと、虐殺の事実をレリーフに刻むことを考えた。その命日に間に合わせたいと、レリーフのデッサンは神里さんが行った。だが暗礁に乗り上げ、地域の代表者の中から反対の声があがった。
鹿山隊に配属された久米島出身の仲原善助さんは、虐殺にかかわった兵士から、翌朝にこの事実を聞かされた仲原さんは手記を残していた。手記には島民9人を殺した場面とともに、日本軍を案内した人間がいたことも記されている。次にスパイ容疑をかけられたのは仲村渠明勇さん。沖縄本島でアメリカ軍の捕虜となった時に久米島への艦砲射撃するのをやめるよう直訴し、島を救った。その後、島民には投降を促した。その行為は日本軍の逆鱗に触れ、島の島民から相次ぐ密告で追手が迫る中、8月15日の終戦を迎えた3日後に、仲村渠さんは捕まり家族全員が殺害された。戦後に鹿山正兵曹長は加害の事実を認め、開き直っていたという。そして、8月20日には上江洲教昭さんの親友の谷川さんの家族が狙われた。アメリカの物を販売していたということでスパイ容疑をかけられた。家族は皆殺しにされたが隠れた場所も密告されていた。
上江洲由美子さんは島民の証言を記録し集めていたという。上江洲さんは担任の先生から亡くなる直前に打ち明けられたが、谷川一家の殺害に加担し後悔や葛藤があったと語ったという。この事件は島を分断し、今も癒えていない。教昭さんは後輩2人に思いを託し、この二人が彫刻家の金城実さんと教昭さんを結びつけた。金城実さんは沖縄戦の実相を描き続けてきた。二人は谷川一家の追悼式を行いたいと、虐殺の事実をレリーフに刻むことを考えた。その命日に間に合わせたいと、レリーフのデッサンは神里さんが行った。だが暗礁に乗り上げ、地域の代表者の中から反対の声があがった。
