能登半島地震により道路は寸断され、最大で24地区3345人が孤立状態に追い込まれた。若桑地区に初めてカメラを入れたのは地震から3週間後。住民たちは、このまま残るか避難するか話し合った。自動車整備工場を経営する浅田一弘さんは工場は大きな被害を受け、仕事の再開は難しい状況にあった。収入が絶たれたにも関わらず機材のリース代を毎月支払い続けている。地域の住民から預かり管理していた120台分のタイヤ。浅田さんは「預かったタイヤを返してあげたい、だから逃げられない」と話す。地震から1か月あまり、浅田さんはり災証明書に必要な被害認定調査に立ち会っていた。被害認定の許可が下りない中、妻・輝美さんは体調を崩しがちになっていた。
2月に入り若桑地区では断水が解消し支援物資も届くようになっていた。農業を営んできた上谷庄司さんは齢80。残りの人生を考えたとき生まれ育った故郷を離れる選択肢はなかった。今は妻・智恵子さんと集会場に身を寄せている。市街地への幹線道路は寸断されたままで、出荷は難しくわずかに咲いた花も捨てるしかなかった。若桑地区がある町野町では349戸の仮設住宅の建設が始まっていた。上谷さんも入居申請をしていたが叶わなかった。支えになっていたのは地震後も残ると言ってくれた息子・衛さんの存在だった。
冬が終わりに近づいたこの時期、浅田さんのもとには一時帰宅した人たちからタイヤ交換の依頼が度々寄せられていた。結婚を機に若桑地区に移り住んできた妻・輝美さん。地域のために必死で働く夫と27年共に歩んできた。4月、若桑地区に避難先から戻ってきた人は1人もいなかった。しげしげと咲く桜の木を見ながら浅田さんは「ここで来年も見ることになっとるかもね。先が長くなるのは分かっとるやけど」と心中を明かした。上谷さんは「今までやってきたことを繰り返そう、一歩一歩進んでみようと」と今の思いを語った。
2月に入り若桑地区では断水が解消し支援物資も届くようになっていた。農業を営んできた上谷庄司さんは齢80。残りの人生を考えたとき生まれ育った故郷を離れる選択肢はなかった。今は妻・智恵子さんと集会場に身を寄せている。市街地への幹線道路は寸断されたままで、出荷は難しくわずかに咲いた花も捨てるしかなかった。若桑地区がある町野町では349戸の仮設住宅の建設が始まっていた。上谷さんも入居申請をしていたが叶わなかった。支えになっていたのは地震後も残ると言ってくれた息子・衛さんの存在だった。
冬が終わりに近づいたこの時期、浅田さんのもとには一時帰宅した人たちからタイヤ交換の依頼が度々寄せられていた。結婚を機に若桑地区に移り住んできた妻・輝美さん。地域のために必死で働く夫と27年共に歩んできた。4月、若桑地区に避難先から戻ってきた人は1人もいなかった。しげしげと咲く桜の木を見ながら浅田さんは「ここで来年も見ることになっとるかもね。先が長くなるのは分かっとるやけど」と心中を明かした。上谷さんは「今までやってきたことを繰り返そう、一歩一歩進んでみようと」と今の思いを語った。