昭和41年、36歳になった良二は自身がバスで移動する区間白鳥から荘川桜まで約40キロを桜で埋め尽くそうと決意。手始めにバスの停留所から植えていこうとしたが圧倒的に苗木の数が足りず。勤務明けや休日を利用して沿線の家を一軒一軒訪ね募金を募り、自身も給料のほとんどを苗木代につぎ込んだ。徐々に苗木の数を増やしていったが、せっかく植えた苗木も夏には毛虫に食い荒らされ、冬になると雪に埋もれて見えなくなり雪かきのブルドーザーに踏み荒らされた。そのたびに良二は丁寧に植え直し休日返上で作業。次第にその姿は沿道の人々に知られるようになり、幼馴染で同じバス運転手の佐藤高三が作業を手伝うと声をかけてくれた。良二と高三は2人で組んでバスに常務することが多かったという。路線は金沢から名古屋まで延長され日本一の長距離バス路線「名金線」が誕生した。昭和46年、良二は体の異変をおぼえ入院。検査の結果、難病と診断されたが化学療法や放射線照射など辛い治療に耐えその甲斐あって病状は治まった。退院する際、医師からは「再発のおそれがあるためくれぐれも無理はしないように」と釘を刺された良二。すでに800本近い桜をこれまで植えていたが病を経てさらに桜の魅力に魅せられた良二は名古屋から金沢まで日本列島を桜で縦断する構想を高三に告げた。
