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「日軍細菌戦史実陳列館」 のテレビ露出情報

2023年12月、清水は731部隊の外隊員とも交流していて長野県軽井沢町にいる3年先輩の須永と対面した。須永が本部から唯一持ち帰ることができた写真アルバムを紹介。須永は731部隊に配属前から防疫給水部であることは知っていたが細菌兵器を開発するとは思ってもいなかったなどと明かした。731部隊は黒龍江省安達に広大な実験場を所有していた。実験場では捕虜たちが円形に配置され、ペスト弾などの実験を行っていたという。2023年11月、浙江省義烏にいる細菌兵器で家族を亡くしたという王を取材。王は細菌兵器により死者が爆発的に広がり、村も焼かれたなどと伝えた。2002年8月、東京にて731部隊の細菌兵器の被害を受けたとして中国人遺族たちが賠償と謝罪を求めて裁判を行い、最高裁で賠償請求は棄却されたが細菌戦の事実を司法が認定した。しかし翌年、当時の政権により731部隊が細菌戦を行ったことを示す資料は現時点で確認されていないとされた。細菌兵器で叔父を亡くしている王選は日軍細菌戦史実陳列館を設立して細菌戦があった事実を次世代に伝える活動をしており、王選は被害者の命の尊厳を守るためなのだなどと語った。
1945年8月15日、310万人もの被害者を出しながらも日本は敗戦した。当時から細菌兵器の使用はジュネーブ議定書にて禁止されており731部隊の幹部たちもそのことは認識していて、少年兵たちも駆り出されて徹底的に証拠隠滅が行われた。清水は終戦3日前に焼かれたマルタこと捕虜たちの遺骨を拾うよう命じられていた。撤退時に清水は上官から拳銃と青酸化合物を渡され、標本室の存在を知るがために捕まった場合には自決するよう命じられ、帰国が確信となった際に拳銃と青酸化合物を海に投げ捨てた。清水は今の若い世代には戦争の残酷さをしっかり学んでほしく、戦争は絶対にやってはいけないのだなどと語った。

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