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「兵庫県立兵庫津ミュージアム」 のテレビ露出情報

阪神・淡路大震災からきょうで30年。けさ5時ごろ、神戸市中央区では灯籠に灯りを灯す人々の姿があった。5時46分一斉に黙祷が行われた。6434人が犠牲となった、阪神・淡路大震災からきょうで30年。昼からは追悼式典が開かれる。きのう特別機で神戸空港に到着した、天皇皇后両陛下。兵庫県の斎藤知事の出迎えを受けた。沿道には両陛下を待つ人の姿があった。1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とする地震が発生した。神戸市や西宮市の一部などでは、最大震度7を観測した。寝ている人が多い早朝に起きた大地震で、多くの人が倒壊した建物の下敷きになった。朝食の準備などで使われていた火が燃え広がり、被害を拡大させた。その翌月には、皇太子時代の陛下も雅子様と共に避難所を訪問し励ましの言葉をかけた。両陛下はその後も、震災1年・5年・15年と度々追悼式典に出席し復興の過程を長い間見守ってきた。きのう震災の特別展を訪れ説明に耳を傾けた両陛下、きょう開かれる追悼式典に出席する予定とのこと。
阪神・淡路大震災からきょうで30年。震災による家屋倒壊や大規模火災によって甚大な被害を受けた、神戸市長田区。921人が亡くなり全焼した建物は4759棟にのぼった。当時この地域で暮らしそば店を営んでいた中村さんに話しを伺うと、当時自身が撮影した日々の記録を見せてくれた。中村さんは、財産がなくなってしまい、借金を子供たちに残さない方法ばかりを考えていたと話す。中村さんが自ら撮影していた記録には、経営していたそば店があたり一面倒壊して全焼している様子が映っていた。煙がおさまってから焼け跡を訪れてみると、金品はほとんど残っていなかった。地震直後は無事だった自宅も、近くの火事の火が燃え移り全焼。幸い家族は無事だったが、家も店も失い手元に残った持ち物は撮影で持ち出したカメラだけだった。その後4カ月にわたった避難生活、その間も準備を続けていた中村さんは、プレハブで営業再開にこぎつけた。店舗再開後の障壁となったのは、約2277億円の大規模再開発。行政による商店街の開発は、維持費が膨れ上がるなど問題があると感じた中村さんは、店舗再開から8年後に閉店し西宮市に移住した。去年11月震災から30年を迎える目前に、再開発事業を終え商店街は復興。震災から再開発の約30年間で、中村さんの家も店もなくなったが唯一、自宅近くにあった柿の木を移植・接ぎ木したものが長田で立派に育っていた。
阪神・淡路大震災からきょうで30年。地震発生直後の過酷な医療現場の実態を記録した映像が残されていた。カメラを回しているのは、当時震源地近くにあった兵庫県立淡路病院の医師。県立淡路病院は、唯一の救命救急病院だった。棚から落ちた資料が床に散乱する中、救急診療室では医師たちが次々と運ばれてくるけが人の治療にあたっていた。当時3年目の内科医で、当直明けだった水谷医師。被害状況など、なにもわからない中で懸命に治療を行ったという。戦後で起きた初めての集団災害となり、トリアージが初めて行われたとのこと。トリアージとは、同時に複数の患者に対応する場合、緊急度や重症度によって治療の優先順位を決めることだという。地震発生直後は軽いけが人が多かったが、発生から2時間がすぎ続々と重症者が運ばれてくる状況になり、慌ただしさが増す院内のあちこちで心肺蘇生が実施されていた。映像には過酷な環境の中で、命の選択を迫られる医療従事者の姿が映し出されていた。
住所: 兵庫県神戸市兵庫区中之島2丁目2-1
URL: https://hyogo-no-tsu.jp/

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