陽明文庫にやってきたが藤原道長の子孫が守り続けた古文書や美術品など、十数満点が保管されている。その中には謎に迫るてがかりがあった。国宝の御堂関白記は藤原道長の日記が。そこには藤原道長の肉筆が記されていたが、その中でもっとも古い日記の998年の7月5日に天皇の指示のもと、相撲の儀式を中止し、寺で経を読ませることにしたと書かれていたという。流行していた疫病への対策を行っていたという。また宮中の行事や天皇の仰せが記されていた。当時藤原道長がどれだけ働いていたのかを調査。デジタルでデータ化した所、月に24日出勤し休日は4日で、泊まり勤務などもしていた事があった。この時の藤原道長は総理大臣のような立場だった。その実務担当者だった蔵人頭の藤原行成は1000年の1月1日は一ヶ月のうち26日も仕事をしていた。多忙だった理由は99年の2月7日には、行成は朝から道長の屋敷を訪ね、様々な政務の指示をきいた後に依頼をうけたが、行成は道長の屋敷を出発し、天皇の母である東三条院に書状を届けた。今度は東三条院に託された書状を届けるために天皇の元へ。天皇の言葉を務めるために再び東三条院へ。最後に道長に報告を行ったのは日が暮れてからだった。帰宅したのは深夜のことだった。蔵人頭の仕事の一つが用心の取次ぎで様々な交渉のことのたびに彼らの元を行き来しなければならなかったがこれが激務の理由だった。また行成がここまで仕事に縛られていたのかと驚かされる記述には、1歳になった息子が病気に亡くなった日には、当時の慣習では死のケガレに触れると30日間は参内できなかったが、それを避けるために命尽きようとする我が子を残し家からでていった。天皇の側近を全うするためには家族の死に目にも会えなかったというが出世でしか家が守れなかったために、このような激務をこなしていたという。