兵庫県北部にある高野山真言宗の・亀居山大乗寺。奈良時代に開かれ、江戸時代に円山応挙が障壁画を手掛けた。このことから「応挙寺」とも呼ばれる。玄関を入り正面に現れるのは弟子・呉春が手掛けた「農業の間」。稲作の営みの様子などが描かれている。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。「孔雀の間」は応挙自ら手掛けたもので、金箔の上に墨一色という手法で松と3羽の孔雀が描かれている。孔雀は阿弥陀如来の乗り物とされている。応挙は当時めったに見られなかった孔雀を丹念に観察し、徹底的に写実を追求した。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙が手掛けた寺の空間は真言密教の教えを立体的に表した曼荼羅と伝えられている。本尊には十一面観音の像があり、この仏間を取り囲むように大小10の部屋が1階に配置されている。四隅の部屋ではこれを守護する四天王を表現、寺全体の空間が仏の世界を形作っている。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙は江戸時代中期、今の京都府亀岡市に生まれた。貧しい農家に生まれ、幼い頃から絵を描くのが好きだった。村の寺に奉公に出された後、10代のころは京都の玩具商で働く。絵の才能を認められ、温厚な人柄もあって有力な神社仏閣とのつながりが生まれていく。師事したのは僧侶の円満院祐常。この際、物事の道理を把握しておけば万物を描けるとする絵画哲学「格物究理」を教わる。応挙は斬新な画風で時の人となり、多くの弟子も集まった。名前は全国に広がったが、生涯京都を離れなかった。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。江戸時代、寺がある香住地区は船の寄港地として栄え都の文化も広がっていた。1787年、大乗寺の住職は寺の再興のため応挙に襖絵を依頼した。応挙作品の特徴の1つは写実的な画風。「郭子儀の間」では、鮮やかな色彩表現と正確な人物描写で政治の世界を表現。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。障壁画は全部で165面。寺の裏手に描かれている「鯉の間」は応挙の息子で弟子の応瑞が22歳で手掛けたもの。モチーフは縁起が良いとされる亀・鯉。「狗子の間」は弟子の山本守礼が手掛けたもので、絵の画題としては当時珍しかった子犬が描かれている。「群山露頂の間」は四方が襖絵。山の頂だけを描き、俗界から離れた神聖な空間を表している。「使者の間」で描かれているのは若者たちの美しい姿。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。広さ5畳ほどの小さな部屋は身分の高い人を警護するために設けられた控えの部屋。番組ではこの空間に描かれている「藤花禽鳥図」を特殊な方法で撮影。歪まず障壁が全体を1つの映像で見ることができる。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。寺の2階に描かれているのは源き「梅花遊禽図」。湾曲した梅の大木と水鳥を応挙の画法で表現した作品。「群猿図」は応挙より21歳若い長沢芦雪による襖絵。襖を建てたまま下書きをせず一気に描いたとされている。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙が墨一色で描いた「松に孔雀図」は亡くなる3か月前に描かれた最後の大作。最晩年は体力が衰え、目の病を患いながら筆を執った。角度や光の当たり方で羽が青く見えたり松が緑色に見えるのがなぜかは今も解明されていない。日本画家・安原成美さんは墨の種類を使い分けることで色の違いが出ることを指摘するが、再現はできず。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。「山水図」では芸術文化などを司る広目天のイメージが描かれている。川の水が海に流れていく様子を奥深い空間で描き、万物の流転を立体的に表している。一辺だけ何も描かれていないのは、あえて空白を設けるデザイン。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙は絵を立体的に見せるため、自然光を巧みに用いた。江戸時代、寺は修業の場だった。夜の修行ではろうそくが使われており、絵画ではその明かりが活きるようデザインされている。「波上白骨座禅図」は人間の骸骨が波の上で座禅を組んでいる姿を描いた掛け軸。これが何を意味するのか、はっきりとは分かっていない。このころ「解体新書」が出版されており、応挙も人の骨格を熱心に研究していた。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。専門家らは当時の応挙の思いについて「自分の人生の記念碑にしようとしていた」と推察する。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。「孔雀の間」は応挙自ら手掛けたもので、金箔の上に墨一色という手法で松と3羽の孔雀が描かれている。孔雀は阿弥陀如来の乗り物とされている。応挙は当時めったに見られなかった孔雀を丹念に観察し、徹底的に写実を追求した。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙が手掛けた寺の空間は真言密教の教えを立体的に表した曼荼羅と伝えられている。本尊には十一面観音の像があり、この仏間を取り囲むように大小10の部屋が1階に配置されている。四隅の部屋ではこれを守護する四天王を表現、寺全体の空間が仏の世界を形作っている。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙は江戸時代中期、今の京都府亀岡市に生まれた。貧しい農家に生まれ、幼い頃から絵を描くのが好きだった。村の寺に奉公に出された後、10代のころは京都の玩具商で働く。絵の才能を認められ、温厚な人柄もあって有力な神社仏閣とのつながりが生まれていく。師事したのは僧侶の円満院祐常。この際、物事の道理を把握しておけば万物を描けるとする絵画哲学「格物究理」を教わる。応挙は斬新な画風で時の人となり、多くの弟子も集まった。名前は全国に広がったが、生涯京都を離れなかった。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。江戸時代、寺がある香住地区は船の寄港地として栄え都の文化も広がっていた。1787年、大乗寺の住職は寺の再興のため応挙に襖絵を依頼した。応挙作品の特徴の1つは写実的な画風。「郭子儀の間」では、鮮やかな色彩表現と正確な人物描写で政治の世界を表現。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。障壁画は全部で165面。寺の裏手に描かれている「鯉の間」は応挙の息子で弟子の応瑞が22歳で手掛けたもの。モチーフは縁起が良いとされる亀・鯉。「狗子の間」は弟子の山本守礼が手掛けたもので、絵の画題としては当時珍しかった子犬が描かれている。「群山露頂の間」は四方が襖絵。山の頂だけを描き、俗界から離れた神聖な空間を表している。「使者の間」で描かれているのは若者たちの美しい姿。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。広さ5畳ほどの小さな部屋は身分の高い人を警護するために設けられた控えの部屋。番組ではこの空間に描かれている「藤花禽鳥図」を特殊な方法で撮影。歪まず障壁が全体を1つの映像で見ることができる。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。寺の2階に描かれているのは源き「梅花遊禽図」。湾曲した梅の大木と水鳥を応挙の画法で表現した作品。「群猿図」は応挙より21歳若い長沢芦雪による襖絵。襖を建てたまま下書きをせず一気に描いたとされている。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙が墨一色で描いた「松に孔雀図」は亡くなる3か月前に描かれた最後の大作。最晩年は体力が衰え、目の病を患いながら筆を執った。角度や光の当たり方で羽が青く見えたり松が緑色に見えるのがなぜかは今も解明されていない。日本画家・安原成美さんは墨の種類を使い分けることで色の違いが出ることを指摘するが、再現はできず。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。「山水図」では芸術文化などを司る広目天のイメージが描かれている。川の水が海に流れていく様子を奥深い空間で描き、万物の流転を立体的に表している。一辺だけ何も描かれていないのは、あえて空白を設けるデザイン。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。応挙は絵を立体的に見せるため、自然光を巧みに用いた。江戸時代、寺は修業の場だった。夜の修行ではろうそくが使われており、絵画ではその明かりが活きるようデザインされている。「波上白骨座禅図」は人間の骸骨が波の上で座禅を組んでいる姿を描いた掛け軸。これが何を意味するのか、はっきりとは分かっていない。このころ「解体新書」が出版されており、応挙も人の骨格を熱心に研究していた。
兵庫県北部、江戸時代に応挙が障壁画を手掛けた亀居山大乗寺。専門家らは当時の応挙の思いについて「自分の人生の記念碑にしようとしていた」と推察する。
