- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像が流れた。
伊藤若冲の作品で国宝に指定されている「動植綵絵 南天雄鶏図」、円山応挙の作品で国宝に指定されている「雪松図屏風」を紹介。
大阪中之島美術館には伊藤若冲、円山応挙が合作した屏風が所蔵されている。美術史家の山下裕二氏は「若冲はものすごくリアルに描くけれども、現実ではあり得ないような描き方も入れ込む」、「応挙は3D的表現というのをすごく得意としていた」などと語った。
伊藤若冲は青物問屋の4代目として誕生し、商いの傍ら、絵を描いていたという。円山応挙の生家はほど近く、呉春、俳人としても知られる与謝蕪村、池大雅もいた。江戸時代の始め、三井家が京都に進出し、呉服の商いで急成長を遂げる。下絵を任されたのは絵師たちで、研鑽を積むのに京都は適地だった。また、海外から伝来した美術品、学問は長崎から京都を経由し、江戸に向かっていた。伊藤若冲は中国の画家から大きな影響を受けたとされ、写実的な表現を磨くべく、庭で鶏を飼育しては写生していた。
江戸時代、動植物など自然に存在するあらゆるものを克明に観察・研究する「本草学」がブームとなった。円山応挙は友人の図鑑づくりをサポートするため、精密な写生に取り組んだ。
- キーワード
- 円山応挙香川県立東山魁夷せとうち美術館
寺社が多い京都では屏風など絵の需要が多く、絵師が腕を磨くのに適していたという。また、松は権威、格式の象徴で、太い幹、大きな枝ぶり、濃い緑で描くのが一般的だったなか、円山応挙は平面な紙に立体を描くことに取り組んだ。
江戸時代の中頃、ヨーロッパで生まれた覗眼鏡が日本で人気を博した。レンズを通して見ると、平面に描かれた作品がより立体的に見える。遠景は小さく、近景は大きく描く「透視図法」があるが、円山応挙は馴染のある京の風景を次々と描いていった。樋口一貴教授は応挙の空間表現などを研究していて、「平面の世界に3次元の世界を構築したかったのではないか」と話す。
兵庫にある大乗寺の3部屋、40面以上の絵を円山応挙が手掛けた。金箔に含まれる銀、銅の割合を科学的に調査すると、絵が置かれた部屋によって違いがあった。部屋を繋げて鑑賞すると、違う色味の絵が組み合わさることで実際の空間よりも奥行きがあるように感じられた。レオナルド・ダ・ヴィンチは絵に奥行きを出すために遠景を青みがった色で表現したが、応挙も同じ発想にたどり着いていたと考えられるという。
河合敦氏、佐藤二朗は円山応挙が描いた「氷図屏風」に驚嘆したという。続いて、注目するのが伊藤若冲で、「動植綵絵 老松白鳳図」を紹介。
荒井経氏は伊藤若冲が得意とした「裏彩色」について説明してくれた。絵の裏側から彩色することで表側に色を浮かび上がらせる技法で、透明感があり、神秘的な仕上がりになるという。様々な生き物の美しい姿を極彩色で描いた「動植綵絵」シリーズは国宝に指定されている。
- キーワード
- 伊藤若冲動植綵絵 老松白鳳図
伊藤若冲が描いた「果蔬涅槃図」ではお釈迦の死に悲嘆する弟子、菩薩らの姿が野菜、果物で表現されている。亡母への追悼の気持ちから描いたといい、伊藤若冲といえば、青物問屋の出身である。裏彩色という超絶技巧を確立した一方、自由な発想も持ち合わせていた。
- キーワード
- 伊藤若冲動植綵絵 老松白鳳図果蔬涅槃図
伊藤若冲が晩年を過ごした石峰寺には風変わりな羅漢像が500体以上ある。晩年、若冲は米斗翁と名乗り、米一斗の値段で絵を売り、生活していたという。それと並行し、石像づくりも行っていた。禅宗の高層に売茶翁がいて、晩年は地位、名声を捨てて一杯の煎茶を売りながら、人々に禅道を説いていたといい、若冲は生き方に惹かれたとされる。若冲は売茶翁の肖像画を10点近く制作していた。米斗翁と名乗るようになってから、若冲はシンプルな絵を数多く手掛けるようになっていく。
スタジオには伊藤若冲、円山応挙が手掛けた図屏風の複製品が用意され、佐藤二朗、河合敦氏らが鑑賞した。応挙は多くの弟子を育成し、京都で近代的な美術学校もつくった。京都市立芸術大学の前身である。一方、伊藤若冲にも弟子はいたが、第二の若冲は生まれなかった。
「歴史探偵」の次回予告。