- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回、加賀百万石の立役者3人を特集する。
オープニング映像が流れた。
1664年頃、各藩の石高ランキングを紹介。3位が仙台藩で62万石、2位が薩摩藩の73万石、1位が加賀藩で103万石。最初にスポットを当てるのは前田利家。本来、4男だった利家は家督を継ぐ立場ではなかったという。
金沢市にある尾山神社には前田利家が祀られている。利家は槍の名手で、約6m近い長槍を操ったのだとか。45歳の時、ニ十万石を与えられた。主君だった織田信長が本能寺の変で討たれ、のちに羽柴秀吉と柴田勝家が激突。前田家を研究する大西泰正氏は利家が柴田勝家側につきながら実は秀吉と内通していたという説を否定し、柴田の勝利のために尽力したと主張する。そんな利家は戦場にそろばんを携帯し、兵糧や兵站などを自ら計算していたといい、秀吉も一目置いていたという。秀吉は自らの領地で検地を実施し、土地の面積や収穫量を調べていた。利家も能登で検地を行い、正しく石高を測っていた。秀吉から実力を見込まれた利家は羽柴方につき、賤ヶ岳の戦いの後、八十万石の大名に上り詰めた。
武勇に加え、算術にも精通していた前田利家を支えたのが妻のまつ。また、利家は豊臣政権を支えた五大老にも名を連ねていて、朝鮮出兵時、渡海しようとする秀吉に思いとどまるよう家康とともに説得したという。利家は関ヶ原の戦いの前年、死去する。
前田利長は戦場では1mを超える兜をかぶっていた他、瓜をくれた農民に感謝の書状をしたためるなど筆まめで、細やかな配慮が行き届いていたという。父の利家が亡くなると、五大老の1人に昇進。徳川家康との関係が悪化すると、家臣を何度も送って釈明させたり、要求に応じて母親を人質として江戸に送るなど敵意が無いことを示した。利長は関係修復に成功し、関ヶ原の戦いでは家康に味方する。本戦には参加していないものの、家康に先んじて西軍との戦いを始めていた。家康は高く評価し、戦後、前田家は20万石を加増されて加賀百万石に。
前田利長は秀吉から、弟の利常は家康から名字を貰っていた。加賀百万石となった利長は数年後、利常に家督を譲ることで、「新徳川」の姿勢を打ち出したと考えられるという。また、鼻毛をわざと伸ばすことでうつけのふりをしていたという。
北陸地方では一向宗が大きな力を有し、武士と対立を続けていた。前田利常は有力な農民を十村に任命し、年貢の管理や揉め事の仲裁などを担わせていた。一揆など起こさせないための措置でもあったという。また、利常は農民にお金を貸し出して農具を新調させたり、新田開発を行わせるなど生産性を上げる政策を打ち出した。木越隆三氏は「農村強化、農業生産の向上に尽くした功績は非常に大きいので、利常は隠れた名君と言ってもいい」と語った。
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- 万葉館前田利常宝達志水町教育委員会
「歴史探偵」の次回予告。