- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ後醍醐天皇を特集する。
- キーワード
- 後醍醐天皇
オープニング映像が流れた。
後醍醐天皇は2度にわたって倒幕計画を立案するも、いずれも発覚。45歳の時、隠岐へ配流されるも、翌年に脱出。3ヶ月後、鎌倉幕府の打倒に成功する。
- キーワード
- 後醍醐天皇
隠岐へ流された後醍醐天皇は粗末な御所での生活を余儀なくされ、常に監視下に置かれていた。当時、持明院統、大覚寺統から交代で皇位が継承されてきたが、最終決定権は鎌倉幕府にあった。大覚寺統だった後醍醐天皇の次は持明院統に移り、大覚寺統に戻っても皇位継承は兄の子息で確定。後醍醐天皇にとって、思い通りの皇位継承を実現させるには鎌倉幕府の打倒が欠かせなかったという。隠岐脱出には島民が協力してくれ、鳥取の港へたどり着く。幕府からの追手が迫るなか、匿ってくれた人々に天皇は名字を与えたという。さらに中国地方の船上山に約3ヶ月籠もり、幕府軍と戦った。天皇の命令が記された文書「綸旨」が味方についた武士に出され、彼らは倒幕に馳せ参じた。
船上山に引き籠もった後醍醐天皇は武士たち、出雲大社に綸旨を出していた。天皇直筆の綸旨も確認されていて、河合氏は「後醍醐天皇はありえないことをしている」と語った。鎌倉幕府の倒幕後、建武の新政がスタートするが各地で不平不満が勃発。足利尊氏に攻められ、天皇は吉野へ逃れることとなった。南北朝時代の始まりである。
後醍醐天皇の皇子、懐良親王は10歳の時に九州へ派遣された。南朝としての拠点がなかったため、南朝方の海賊のもとに身を寄せたという。その後、父である後醍醐天皇が崩御。親王は忽那島で3年、薩摩国での紛争に5年半、肥後国で13年半を戦いに費やしたという。1359年、日本三大合戦に数えられる筑後川の戦いが起きた。懐良親王は戦闘の最前線に立ち、深手を置いながらも味方を鼓舞した。2年後、太宰府を鎮圧したことで、懐良親王は九州平定を成し遂げた。
1392年、南北朝の合一が行われ、後亀山天皇から後小松天皇へ三種の神器が渡された。両者の間で両統迭立の約束が行われていたが、反故にされ、北朝が皇位を独占。後亀山天皇は吉野に戻り、後南朝は約90年続いたとされる。
後南朝の拠点があった奈良・川上村では2月5日、儀式が行われる。近年まで一般には公開されず、568年にわたって密かに続いてきた。1443年、後南朝の軍勢は北朝の天皇がいる御所を襲撃し三種の神器の1つを奪うことにも成功した。村民は落ち延びてきた後南朝の武士たちを歓待したという。その後、幕府が刺客を送り込み、村人たちは後南朝に関する情報をリーク。自天王という皇族がいて、先祖を遡れば後醍醐天皇に行き着いたとされるが、殺害されてしまった。村では自天王を偲ぶため、毎年、朝拝式を行っている。参加者が榊の葉を咥えるのは、情報をリークして自天王を喪ってしまったことへの自戒だという。
応仁の乱の際、西軍は南朝の西陣南帝と呼ばれる人物を擁立した。東軍が天皇、上皇を擁立したことへの対抗策と考えられている。佐藤二朗は後醍醐天皇の求心力に舌を巻き、さらに後南朝の歴史を特集するために険阻な道を進んだ秋鹿真人アナをねぎらった。
「歴史探偵」の次回予告。