隠岐へ流された後醍醐天皇は粗末な御所での生活を余儀なくされ、常に監視下に置かれていた。当時、持明院統、大覚寺統から交代で皇位が継承されてきたが、最終決定権は鎌倉幕府にあった。大覚寺統だった後醍醐天皇の次は持明院統に移り、大覚寺統に戻っても皇位継承は兄の子息で確定。後醍醐天皇にとって、思い通りの皇位継承を実現させるには鎌倉幕府の打倒が欠かせなかったという。隠岐脱出には島民が協力してくれ、鳥取の港へたどり着く。幕府からの追手が迫るなか、匿ってくれた人々に天皇は名字を与えたという。さらに中国地方の船上山に約3ヶ月籠もり、幕府軍と戦った。天皇の命令が記された文書「綸旨」が味方についた武士に出され、彼らは倒幕に馳せ参じた。
住所: 島根県隠岐郡西ノ島町別府275