- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回、尼子氏の強さを特集する。難攻不落の城から見えてきた、勢力拡大の秘策とは?
- キーワード
- 毛利元就
オープニング映像が流れた。
尼子氏の居城だった月山富田城には兵を常駐させる曲輪が多く築かれていた。通常の山城であれば10前後だが、月山富田城には500近くあり、敵襲にも迅速に対応できたと考えられる。さらに本丸に向かうルートは1本しかない上、急斜面。番組で検証したところ、平地であれば4~5分の距離に30分を要した。毛利元就をして「力攻めなど無理である」と言わしめた城だった。また、尼子経久は出雲大社の造営事業にも携わっていた。そんな尼子氏は7か国を治めていた大内義隆と相まみえることとなった。領主は大内方に寝返り、月山富田城は敵軍によって包囲された。だが、2ヶ月経っても落城せず、大内方から裏切りが続出。大内軍は敗走し、尼子氏は中国地方の一大勢力となった。
月山富田城の周囲には複数の支城があり、南方からの敵襲、海からの急襲に備えるなどそれぞれに役割があった。また、尼子氏の茶器は今の価値に換算すると2000万円以上にのぼったという。茶器のコレクターだった豊臣秀吉は戦場に持参するほど、尼子氏の茶器を気に入っていたという。
日御碕神社に所蔵されている文献を紐解くと、出雲国では大規模な交易が行われていたことが伺い知れる。尼子氏は港を訪れる船、店を構える商人たちに税をかけていたという。加えて、石見銀山の銀の産出量は日本有数を誇っていた。尼子氏は商人に対し、商いの保証と引き換えに財政面の手助けを受けていたと考えられる。
毛利軍が石見銀山を手中に収めようと、石見国へ攻めていた時、尼子氏は軍需物資になりうるものが毛利の手に渡らないよう流通量を統制していたという。また、籠城する敵兵がいた時、尼子氏は商人を呼び寄せて市場を開かせたり、酒宴を催すことで、士気を喪失させたという。だが、毛利元就は尼子氏の領地を次々と奪っていき、1566年、尼子氏は降伏を余儀なくされた。
山中鹿介は尼子の再興を目指し、一族を見つけ出すと再興軍のリーダーに据えた。リーダーは僧侶だったが、尼子勝久として還俗することとなった。さらに山中の考案する作戦は毛利軍相手に優勢かと思われたが、山中たちは敗走を余儀なくされた。すると、山中は織田信長と謁見。信長は中国地方の地理、社会情勢などを山中がよく理解していると考えたと思われる。山中は羽柴秀吉軍とともに毛利軍の城を次々と攻め落としていくが、毛利の大軍を前に苦境にあえぐ。尼子勝久は自害し、山中鹿介も命を落とした。
山中鹿介の兜が毛利方の手にわたると、毛利元就の二男である吉川元春は大切に保管するべきと指摘した。河合敦氏によると、尼子氏の忠臣であり続けた山中鹿介に対し、吉川は「敵ながらあっぱれ」とリスペクトしていたのかもしれないという。
「歴史探偵」の次回予告。