- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 千田嘉博
今回、藤堂高虎を特集する。
- キーワード
- 藤堂高虎
オープニング映像が流れた。
藤堂高虎が築城に関わった赤木城には複数の石垣、断崖があり、石垣をよじ登ろうとしても側面に配置された兵士から攻撃されてしまう。高虎は身長190cm、体重が100kgオーバーだったといい、20歳の時に豊臣秀長と邂逅。近江の職人集団「穴太衆」は自然石を加工せずに積み上げ、石垣を築いていった。野面積みと呼ばれ、赤木城にも採用されている。1581年、秀吉軍は鳥取城攻略に着手した。城の包囲に際し、大軍を効率的に配置するため、高度な土木技術が用いられたという。秀長のもとで最先端の築城術を目の当たりにした高虎は城づくりの名人として名を馳せていく。
豊臣秀長、秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いで、藤堂高虎は徳川方についた。恩賞で貰った領地に今治城を築いた。西日本には豊臣恩顧の大名が健在で、警戒を続ける必要があったという。砂地は本来、築城には適さないが、藤堂高虎はしっかりとした土台を築き、高さ13mの石垣を積み上げることができたという。天守は層塔型で、分解と組み立てが簡単。また、高虎は上野城の大改修を命じられた。石垣は高さ30mに達し、完成した当時、日本一の高さを誇った。野面積みとは違った技法が採用されていて、短時間で石垣を積むことが可能だったという。
千田氏によると、戦国時代、素晴らしい主君に家臣は忠義を誓うものの、その逆であれば見限って、違う主君に仕えるのは日常茶飯事だったという。藤堂高虎が仕えた秀長が亡くなると、後継者の秀保も若くしてこの世を去った。その後、家康に仕えることになる。臨終の際、家康は「死後、国に一大事が起きたら、先陣は藤堂高虎に任せよ」という言葉を遺している。
藤堂高虎にとって最後の居城が津城だった。石垣は必要になった部分だけ継ぎ足し、人やモノの往来を活発にすることで、産業振興を図った。伊勢街道を城下町に引き込み、伊勢神宮の参拝者たちで集客につなげようとしていたという。伊勢木綿は参拝者たちのお土産として好評だったとされる。
千田氏は藤堂高虎が関わった城を見ていくと、カリスマが世の中を牽引するのではなく、組織力で秩序を保つ、長い平和を維持しようとする思いを感じるという。佐藤二朗は「高虎が最後にたどり着いたのは国づくりだった」と述べた。
「歴史探偵」の次回予告。