東京・虎ノ門にある気象庁には、限られた人しか立ち入ることができない部屋がある。その中には、150年分の観測データを始めとする貴重な資料が残されている。最初に作られた天気図を見てみると等圧線が2本しか書かれておらず、今と比べると非常にシンプルなもの。そしてその天気予報が新聞に掲載されるようになり、当時も今と同じように生活の一部になっていた。しかし1941年の朝日新聞を見ると、12月8日まで掲載されていた天気予報が翌日から消えていた。戦時中に山形測候所に努めていた元技術員の梛野栄司さんは、当時を知る人物の1人。人の命を守るための天気予報だったが、戦時中に梛野さんたちは軍から「書いた予報は一般には出さない」との命令を受けていた。気象報道管制が太平洋戦争の開戦と同時に日本軍から出され、天気や風向きなどを伝える天気予報は敵に有利な情報を与えることになるとしてすべて軍事機密となった。軍が秘密にしたことで、周防灘台風の大災害が起こった。1942年に日本のはるか南で発生した台風は、約1週間後に九州を直撃した。今で言う猛烈な勢力に匹敵するほど発達した台風で、勢力をほとんど落とすことなく列島を襲った。軍が情報を隠した結果多くの住民が台風の情報を知らされず、避難が間に合わなかったという。小学生の時にこの台風を経験した、山口県宇部市に住む大亀恆芳さんは「地区全体で300人以上が亡くなっている。情報があったらみんな生きているのではないか」などと語った。山口県だけで700人以上の犠牲者が出たのは、台風が真夜中に接近し高潮が起こったためだった。実は当時気象庁は、この台風で甚大な被害が出ることを予想していた。戦時中に周防灘台風についてまとめられた資料には、甚大な被害が予想される場合のみ発表される「特令暴風警報」の文字があった。しかし周防灘台風が接近しても日本軍が発表を禁じていたため、この情報は誰にも届かなかった。先月101歳で亡くなった気象学者の増田善信さんは戦前から気象庁に勤め、終生後悔の念を忘れずにいたという。増田さんは気象庁を退官後、原爆が引き起こした黒い雨を研究し全国で講演会を行った。かつて天気予報がなくなった時代を知る気象学者が後世に伝えたかった言葉が、「天気予報は平和のシンボル」だった。
