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「坂本町(熊本)」 のテレビ露出情報

山里亮太の母・文代さん。旧姓は山崎。文代さんの父・山崎續男、母・ケイ子は熊本で生まれ育った。山崎家の本籍地は現在の八代市坂本町。文代さんのいとこの東亜喜さんに案内してもらう。山崎家があったのは、球磨川沿いの小高い山の中。大正8年に續男は生まれた。生活の糧の1つは川での仕事。山崎家の人たちは、明治時代から昭和30年頃まで渡し船の船頭をしていた。續男は船頭の仕事を手伝いながら貧しさから抜け出そうと勉強に精を出す。成績が優秀だった續男は昭和9年、15歳で熊本の薬問屋に就職。現在の社長は山崎さんについて、父と母から誠実で真面目な方でお得意先から信頼が非常に厚い方だと聞いているという。入社から14年目、續男は29歳で取締役に選ばれた。出世を遂げた續男は、田舎の両親を度々助けていた。そんな續男の姿を見ていたのが、同じ会社で働く杉本ケイ子。のちの亮太の祖母。昭和23年に結婚。ケイ子の気質がお笑い芸人・山里亮太に特に色濃く受け継がれることになる。
昭和27年、ケイ子たちは鹿児島に引っ越す。薬問屋が鹿児島に支店を出し、取締役の續男が支店長を任された。ケイ子は自分も働きたいと支店の近くで食堂を開く。名前は「すぎ食堂」。夫の續男も仕事の合間に手伝った。しかし昭和43年、續男が脳溢血で倒れ48歳で亡くなった。ケイ子はこの時41歳。ケイ子は食堂の稼ぎで残された4人の子どもを育てることになった。そんな日々の中でケイ子は子どもたちに「好きなことをやって楽しみなさい」と言って聞かせた。ケイ子の店は次第に繁盛し、労働者や地元の人たちで賑わうようになる。人気の理由はケイ子持ち前の明るさ。人を笑わせることが大好きだった。常連客だった女性2人は、「すぎ食堂のおばちゃんというと大概の人は知っていた」「おおらかで太っ腹で肝っ玉母さんという感じのお母さん」などと話した。ケイ子の日記が残っており、筆まめで日誌みたいな川柳を書いていたという。孫の亮太も筆まめ。笑いのネタ帳は数百冊に及ぶ。ケイ子の長女・文代が亮太の母。生まれは昭和25年。鹿児島純心女子中・高等学校で学ぶ。ケイ子と同じように文代も人気者だったと同級生は言う。人気の理由は、母譲りの身長の高さと話の巧みさだった。

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