- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 山里亮太
山里亮太は様々な番組で司会を任されている。舞台でも精力的に活動。20代の頃は鳴かず飛ばずの下積み時代を過ごした。その時支えになったのは「30歳までは諦めずに頑張る」という家族との約束だった。
山里亮太はこの番組への出演が決まってから、ずっと楽しみだったと話した。
オープニング映像。
山里亮太は千葉県出身。両親と兄の4人家族で育った。父・清美さん、母・文代さん、兄・大樹さん。芸人になりたいと言った時、両親はびっくり仰天。清美さんは堅実に生きてほしいと願っていたため、猛反対したという。
清美さんは鹿児島県西部の町・日吉町吉利で生まれ育った。代々、山里家の人たちが暮らした土地を案内してもらった。庭には先祖が大切にしてきた2つの石がある。これは集落の氏神様だという。宝暦3年に描かれた吉利郷惣絵図を見ると、山里という地名があった。さらに古い文献を調べると、鎌倉時代から山里と呼ばれていたことが分かった。山里亮太の5代前の先祖・四郎八は19に及ぶ田んぼや畑を所有していた。しかし、その暮らしは一変する。山里家は知人の借金の保証人になったことで、財産の多くを失っていた。借金の保証人となり、財産を失ったのは曽祖父・正太郎だった。正太郎は温泉宿で働き、コツコツ借金を返したという。
祖父・正弘も地元の郵便局でコツコツ働いた。昭和20年、山里亮太の父・清美さんが誕生。薩南工業高等学校に進学し、バレーボール部に入った。工業高校で将来の職業につながる技術を学んだ。高校で学んだ知識を活かし、東京で就職。建設業界で働いた。昭和47年、文代さんと結婚。さらに仕事で成果をあげようと努力したという。堅実な仕事に就き、人一倍努力を重ねた清美さん、息子たちにも同じ生き方をしてほしいと願っていた。だからこそ、山里亮太がお笑い芸人になることを許せなかったという。
山里亮太は芸人になる前から口癖のように「保証人にだけはなるな」と言われていた。父の真面目さは代々受け継がれてきた真面目さだった。自分も努力で戦ってきたので父から受け継いだものかもしれないと話した。
山里亮太の母・文代さん。旧姓は山崎。文代さんの父・山崎續男、母・ケイ子は熊本で生まれ育った。山崎家の本籍地は現在の八代市坂本町。文代さんのいとこの東亜喜さんに案内してもらう。山崎家があったのは、球磨川沿いの小高い山の中。大正8年に續男は生まれた。生活の糧の1つは川での仕事。山崎家の人たちは、明治時代から昭和30年頃まで渡し船の船頭をしていた。續男は船頭の仕事を手伝いながら貧しさから抜け出そうと勉強に精を出す。成績が優秀だった續男は昭和9年、15歳で熊本の薬問屋に就職。現在の社長は山崎さんについて、父と母から誠実で真面目な方でお得意先から信頼が非常に厚い方だと聞いているという。入社から14年目、續男は29歳で取締役に選ばれた。出世を遂げた續男は、田舎の両親を度々助けていた。そんな續男の姿を見ていたのが、同じ会社で働く杉本ケイ子。のちの亮太の祖母。昭和23年に結婚。ケイ子の気質がお笑い芸人・山里亮太に特に色濃く受け継がれることになる。
昭和27年、ケイ子たちは鹿児島に引っ越す。薬問屋が鹿児島に支店を出し、取締役の續男が支店長を任された。ケイ子は自分も働きたいと支店の近くで食堂を開く。名前は「すぎ食堂」。夫の續男も仕事の合間に手伝った。しかし昭和43年、續男が脳溢血で倒れ48歳で亡くなった。ケイ子はこの時41歳。ケイ子は食堂の稼ぎで残された4人の子どもを育てることになった。そんな日々の中でケイ子は子どもたちに「好きなことをやって楽しみなさい」と言って聞かせた。ケイ子の店は次第に繁盛し、労働者や地元の人たちで賑わうようになる。人気の理由はケイ子持ち前の明るさ。人を笑わせることが大好きだった。常連客だった女性2人は、「すぎ食堂のおばちゃんというと大概の人は知っていた」「おおらかで太っ腹で肝っ玉母さんという感じのお母さん」などと話した。ケイ子の日記が残っており、筆まめで日誌みたいな川柳を書いていたという。孫の亮太も筆まめ。笑いのネタ帳は数百冊に及ぶ。ケイ子の長女・文代が亮太の母。生まれは昭和25年。鹿児島純心女子中・高等学校で学ぶ。ケイ子と同じように文代も人気者だったと同級生は言う。人気の理由は、母譲りの身長の高さと話の巧みさだった。
高校を卒業したあと、会社勤めを始めた文代。不思議な縁で運命の人と出会う。鹿児島・日吉町吉利にはかつて山里と呼ばれた集落があった。紹介されたのは、のちの亮太の父・山里清美だった。しかし清美は当時東京で働いていたため、文代はまず清美の両親に会う。よさそうなご両親に本人に会わないうちに結婚してもいいやと思ったという。清美の両親も文代を気に入りすぐ息子に「良い結婚相手が見つかった」と電話をかける。自分の両親が気に入ればいいやと「いいよ」と返事し、2人は一度も会わずに結婚を決意。始めて会ったのは結納が済んだあとだった。亮太が生まれるのはこの5年後のこと。
山里亮太の両親は、一度も会わずに結婚を決めたという。山里は「ぶっとんだ選択がなかったら生まれてない」などとコメント。祖母は筆まめで時にはネタみたいなことも書いていて、「そこは完全に受け継いでたし、あんなすごいじいちゃんだったんで」などとコメント。薬屋の店長としか聞いてなかったので凄さがわかってなかったという。
昭和49年、文代との間に長男・大樹さんを授かった清美さん。しかし、翌年にリビアの首都・トリポリに単身赴任することになった。仕事は港の建設。当時は小さな船しか入れなかったため、海底を掘って護岸を整備し、大型の船がつけるようにする大プロジェクトだった。その資材や道具の現地調達を任された。1年半に及ぶプロジェクトを成功させ、帰国する。しかし、長い間会っていなかったからか、大樹さんが全く懐かなかった。もっと海外で大きな仕事をしたいという思いもあったが、家族との時間を大切にするため、海外出張のない営業部に異動。昭和52年、次男の山里亮太が誕生。父について、大樹さんはとにかく厳しかったと話した。母・文代さんはやりたいことをやれと言われて育ったため、息子たちにも同じように接した。大樹さんはお母さんはいつも優しくて僕たちの味方だったと話した。高校生になった山里亮太は人を笑わせる才能を発揮し始める。その後、両親にお笑い芸人になりたいと話した。清美さんは反対したが、文代さんが説得。大樹さんは大阪での受験費用としてアルバイトで貯めた30万円を出すと申し出た。そして家族で30歳までやる、30歳までに芽が出なかったら諦めるという約束をかわした。
山里亮太は大阪の大学に進学。吉本興業の養成所に入り、お笑いの道を歩み始める。しかし、中々思うような結果が出せない。壁のシミの形から連想して、すぐに面白いことを言う訓練などをした。親友の行木さんは懸命にもがく山里亮太を間近で見ていた。日常から変えようという努力がすごく彼から出ていたと話した。その後、運命の女神である相方のしずちゃんに出会う。山里亮太から声をかけ、平成15年に南海キャンディーズを結成。平成16年にM-1グランプリで準優勝、山里亮太が27歳の時だった。
今田耕司はお母さんのあの一言がカッコいいと話した。山里亮太はその言葉がなかったら、諦めていたと思うと話した。自分を追い詰めることなく、お笑いという仕事を全力でやればいいという日々を過ごさせてくれた。30歳までやっていいという言葉は心の支えになっていたと話した。また、相方・山崎静代は母・山崎文代と一文字違いだということに今気づいたという。
清美さんが家にあるものを紹介。亮太が出ている番組はDVDに録って残してある。ラジオも聴くといい、活躍が喜びであり、楽しみだとと話した。令和元年、山里亮太は俳優・蒼井優と結婚。しかし、清美さんは蒼井優を知らなかったという。芸能界での活躍の記録、その中に母子手帳や絵日記など家族の思い出の品も残されていた。祖母・ケイ子さんは芸人として人気者になった山里亮太のことを日記に書いていた。
山里亮太は子どもに語ってあげたいことがたくさんあったので、壁とかに当たった時の越え方をきょうは教わった気がすると話した。
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