岸さん・野村さんは頂上から見える星空を目当てに弥山に登った。しかし、下山ルートで遭難。遭難と気づいたときには午後5時で周囲は暗くなってきていた。2人は山中で一夜を過ごすことに。翌朝、午前6時30分頃から 行動を開始。体力的にも登るという選択肢はなかったため、とにかく下っていくことに。ダムよりも規模が小さい堰堤に突き当たり、引き返すことに。そこから15分ほど登ると小屋があった。すでに暗くなりそうな時間帯だったため、その小屋で一夜を過ごすことに。小屋は6畳ほどの大きさ。万が一に備え、食料は少しずつ食べていった。この付近は夜になると10℃近くまで冷える。そこで2人は木の枝や落ち葉を集めて火をおこし、小屋の中で焚き火をした。遭難3日目の朝を迎えた。遭難初日から携帯電話は頻繁に確認していたが山奥のためずっと圏外。しかし、GPSは衛星から発信される電波を受信するため圏外であっても位置情報を得られた。町がある位置や大きな車道は分かるが、山道はもちろん山の起伏や細かい形状までは分からず、緑色で山と分かるようになっているだけだった。登山届を出していた2人。下山していないことは誰かしら気づいてくれると信じていた2人は、遭難した時は下手に動き回るより同じ場所にとどまっていた方が安全だと小屋にとどまることを決めた。2人は上空が開けた場所に目立つ色のものを置いたり火をおこしたりして上空から気づいてもらえるように努力した。上空ではヘリコプターが飛んでいたが2人に気づくことはなかった。
実は、遭難した日の夜、2人は下山後、天川村の民宿に宿泊するつもりで予約を入れていた。弥山から下山すると告げていたため、民宿スタッフは遭難した可能性があると思い通報していた。翌日には2人の親族も現場に駆け付け、警察・消防は地上はもちろんヘリコプターを飛ばして捜索を開始していた。この日、ライターのオイルがなくなってしまった。焚き火の火を絶やさないよう、交代で夜中も焚き火の見張りをした。遭難4日目も上空が開けた場所に目立つ色のものを置いたり火をおこしたりして上空から気づいてもらえるように努力した。しかし、無情にもただただ時間だけが過ぎ去っていった。ついには遭難から1週間が経過した。野村さんはヘリコプターの音が聞こえなくなったことに気づいた。実は、警察や消防のみならず、ボランティアも加わって連日必死の捜索が行われたが、公的機関の捜索は遭難6日目をもって打ち切りとなっていた。野村さんは捜索打ち切りを完全に悟り、1人で救助を呼びに行く決断をする。野村さんが予備として岸さんの携帯電話を持っていくことになり、岸さんは連絡手段を失う。野村さんが救助を呼ぶことに成功しないかぎり、岸さんは助けを呼びようがない状況に置かれることになった。この日、野村さんはほとんど休憩することなく12時間以上歩き続けた。
実は、遭難した日の夜、2人は下山後、天川村の民宿に宿泊するつもりで予約を入れていた。弥山から下山すると告げていたため、民宿スタッフは遭難した可能性があると思い通報していた。翌日には2人の親族も現場に駆け付け、警察・消防は地上はもちろんヘリコプターを飛ばして捜索を開始していた。この日、ライターのオイルがなくなってしまった。焚き火の火を絶やさないよう、交代で夜中も焚き火の見張りをした。遭難4日目も上空が開けた場所に目立つ色のものを置いたり火をおこしたりして上空から気づいてもらえるように努力した。しかし、無情にもただただ時間だけが過ぎ去っていった。ついには遭難から1週間が経過した。野村さんはヘリコプターの音が聞こえなくなったことに気づいた。実は、警察や消防のみならず、ボランティアも加わって連日必死の捜索が行われたが、公的機関の捜索は遭難6日目をもって打ち切りとなっていた。野村さんは捜索打ち切りを完全に悟り、1人で救助を呼びに行く決断をする。野村さんが予備として岸さんの携帯電話を持っていくことになり、岸さんは連絡手段を失う。野村さんが救助を呼ぶことに成功しないかぎり、岸さんは助けを呼びようがない状況に置かれることになった。この日、野村さんはほとんど休憩することなく12時間以上歩き続けた。