本社に極秘の開発プロジェクトは横浜工場の片隅でスタートをきった。家庭用VTRの開発には3年以上に時間が必要になると考えた。突然、高野は日本ビクター本社に呼び出された。全国の営業所を切り離し2600人の合理化を進めていた。業務用VTRの在庫が山積みになり毎月5000万円ずつ赤字が出ていた。本社への借金は30億円にまで膨らんでいた。本社は高野に技術者の3割を削減するように迫った。高野は経理課長の大曽根収をプロジェクトに呼び込み、本社の追及を逃れる手立てを考えてくれと頼んだ。大曽根は水増しした販売予測や架空の事業計画を作って本社の経理部に通い続けた。高野は本社の目をごまかすために新しい営業部を作った。20人の技術者を集め自分たちの給料分はVTRを売って稼いでくれと頼んだ。上野吉弘は営業で稼いでみると答えた。技術者の営業部隊は開発プロジェクトを助けるために消費者がどんなVTRを求めているのか調べ始めた。高野は中小企業の工場立ちを必死に繋ぎ止め部品を作ってもらえるように頼んだ。門間貞雄は大手家電メーカーの誘いを断って、従業員50人の命運を高野に預けた。昭和49年12月、ソニーが家庭用VTRの開発に成功したニュースが飛び込んだ。「ベータマックス」と名付けられ大きさは業務用の約半分、録画時間は1時間画質は最高だった。高野は気落ちしたが、若手技術者の意欲は一向に衰えてなかった。高野は家で松の盆栽を育てていた。失敗したときには詫びのしるしに1鉢ずつ部下に贈ろうと考え1年で270鉢まで揃えた。