- 出演者
- 国井雅比古 久保純子 豊野雅晴
50年前、日本で開発されたVHS。VHSビデオレコーダー、その開発秘話を紹介。
オープニング映像。
50年前、日本で開発されたVHS。VHSビデオレコーダー、その開発秘話を紹介。日本人が作ったVHSは全世界に7億5000万台が普及した。VHSを作った人たちはリストラ寸前の部署にいた。
神奈川・神奈川区の一画にサラリーマンが仕事帰りの一杯を楽しむ居酒屋「きしや」がある。昭和45年、きしやから100mほど離れた日本ビクターの工場から毎日来ていたのが47歳の高野鎮雄だった。高野は会社のお荷物と叩かれていたVTR事業部の部長に就任したばかりだった。VTR事業部はリストラ寸前の部署だった。当時、日本ビクターは経営危機に陥り80億円あった営業利益は30億円に激減していた。高野が任された部署は本社が設計した業務用VTRを組み立て企業やホテルに売り歩くのが仕事だった。本社と切り離され独立採算性を取っていたが業績は最悪だった。社員220人の給料も賄えず本社への借金が10億円にものぼっていた。部長を命ぜられた時、高野は一週間会社を休んだ。社内では部長い慣れば1年でクビが飛ぶとウワサされていた。精密光学を学んだ高野は昭和21年に日本ビクターに入社したが日が当たらなかった。1970年、家電業界は家庭用VTRにしのぎを削っていた。開発できれば巨大な市場が独占できる。その競争をリードしていたのはソニーだった。昭和47年、日本ビクターは新製品の開発をやめ、既存の業務用VTRの改良と販売だけを行う決定をした。本社から50人の技術者が高野の事業部へ移された。しかし、この顔ぶれをみて高野は願ってもない宝物をもらったと喜んだ。この50人はテレビの父と言われた高柳健次郎の教え子たちだった。1ヶ月後、高野は技術者の1人を呼び極秘の計画を打ち明けた。呼ばれたのは高柳の右腕と呼ばれた白石勇磨だった。白石に家庭用VTRの開発を独自に行いたいと打ち明けた。本社が知れば処分は免れない計画だった。バレないようにプロジェクトの人数は最小限にする必要があった。選んだのは24歳の梅田弘幸と29歳の大田善彦の2人だった。昭和47年4月、4人の家庭用VTR開発プロジェクトが誕生した。
スタジオに業務用VTRが登場。重さは36kg。値段は当時38万円。現在では120万円ほど。日本ビクターは家電メーカーとして将来性がないと言われていた。
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本社に極秘の開発プロジェクトは横浜工場の片隅でスタートをきった。家庭用VTRの開発には3年以上に時間が必要になると考えた。突然、高野は日本ビクター本社に呼び出された。全国の営業所を切り離し2600人の合理化を進めていた。業務用VTRの在庫が山積みになり毎月5000万円ずつ赤字が出ていた。本社への借金は30億円にまで膨らんでいた。本社は高野に技術者の3割を削減するように迫った。高野は経理課長の大曽根収をプロジェクトに呼び込み、本社の追及を逃れる手立てを考えてくれと頼んだ。大曽根は水増しした販売予測や架空の事業計画を作って本社の経理部に通い続けた。高野は本社の目をごまかすために新しい営業部を作った。20人の技術者を集め自分たちの給料分はVTRを売って稼いでくれと頼んだ。上野吉弘は営業で稼いでみると答えた。技術者の営業部隊は開発プロジェクトを助けるために消費者がどんなVTRを求めているのか調べ始めた。高野は中小企業の工場立ちを必死に繋ぎ止め部品を作ってもらえるように頼んだ。門間貞雄は大手家電メーカーの誘いを断って、従業員50人の命運を高野に預けた。昭和49年12月、ソニーが家庭用VTRの開発に成功したニュースが飛び込んだ。「ベータマックス」と名付けられ大きさは業務用の約半分、録画時間は1時間画質は最高だった。高野は気落ちしたが、若手技術者の意欲は一向に衰えてなかった。高野は家で松の盆栽を育てていた。失敗したときには詫びのしるしに1鉢ずつ部下に贈ろうと考え1年で270鉢まで揃えた。
大曽根収は「高野さんはあまり話さない。変わってお詫びする。そんな感じでした。高野さんの夢に携われる喜びがあった。非常に部下を大切にする人だった」などと話した。
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ビクターのプロジェクトチームが最終試作機を完成させたのは昭和50年8月。ソニーのベータの販売が始まってから3か月がたっていた。試作機は連日の徹夜の末、完成。後にVHSと名付けられたビデオはベータより5キロ軽かった。小型化に成功したその秘密は、実用化は困難といわれていたパラレルローディング方式の成功。開発したのは梅田。長時間になれば画質が乱れるビデオの根本的な問題を解決したのは僅か2センチの部品、大田の発明だった。高野は最終試作機の仕上がりに満足していた。しかし発表には慎重な態度を期した。高野の胸には天才技術者、高柳健次郎の無念の挫折があった。昭和33年、高柳は業務用VTRの開発を手掛け、世界に先駆けてスローモーション再生を実現。しかし先行する米国の力に太刀打ちできなかった。高野は極秘に開発したVHSの成否を一人の人物にかけようと思った。ビクターの親会社である松下電器をつくり上げた松下幸之助。松下電器はベータに傾いているといわれていた。昭和50年9月3日、ビクターの横浜工場に黒塗りの乗用車が乗りつけた。高野は4年の歳月をかけて開発したVHSの真価がこの1日で決まることに緊張していた。プロジェクトルームでは開発メンバーが念入りに準備をして待った。一同が見守る中、VHSの説明が始まった。松下幸之助はこう言った。「ベータマックスは100点満点の製品だ。しかしこのVHSは150点だ」。高野は一つの決意をしていた。それは4年の歳月をかけた試作機を他社に無条件で貸し出すというものだった。高野は日本最大の家電メーカー、日立に接触。日立は家庭用VTRの自社開発を諦めベータの採用に動いていた。日立のVTR部長、宮本延治はVHSを見た時の衝撃を日記につづっている。さらに企業秘密である試作機を無条件で貸すという高野の申し出に日立は驚いた。高野は大手メーカーを次々と訪問。VHSを普及させるため企業を超えたプロジェクトの結成を呼びかけた。昭和51年9月9日、ビクターはついにVHS第1号機を発表。VHSには各社の技術が総動員され新しい機能が次々と追加されていった。テープを前から装填するフロントローディングの技術はシャープが、映像を早送りできる機能は三菱電機が提供。さらにVTRの内部には数多くのメーカーの技術が結集された。その総合力がVHSの完成度を飛躍的に高めていった。海外でも技術を公開し共に規格を育てようとする高野の姿勢は変わることはなかった。VHSは米国、ヨーロッパの市場も押さえ発売から7年後、ついにベータを大逆転し世界標準規格へと上り詰めた。かつて窓際と陰口をたたかれたVTR事業部。部長、高野鎭雄は一人のリストラも行わず270人の社員全員を守り抜いた。
高野鎮雄はVHS発表から10年後の昭和61年、日本ビクターの副社長に就任した。その後も、横浜工場を訪ねては女子工員1人1人にねぎらいの言葉をかけた。高野はすべての従業員の名前を覚えていた。平成2年6月に副社長を退任、送別会にはVTR事業部全員が駆けつけた。その2年後、がんで亡くなった。平成4年1月21日、高野の棺を乗せた車は横浜工場に立ち寄った。社員全員が見送った。高野の自宅の庭にはプロジェクトが失敗した時に部下1人1人に手渡すつもりだった盆栽が今も遺されている。270鉢の松は妻の手で育てられている。
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1980年代、VHS対応のカメラが次々発売され、思い出を映像で残す時代が始まった。小森谷健太さんは父が奮発してカメラを買い残した映像があることを最近知った。たくさんの思いでを記録したVHS。ダビングを請け負う店には今でも複製の依頼が相次いでいる。
新プロジェクトX〜挑戦者たち〜の番組宣伝。