- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 枚田典彦 岸田郁夫 平井敏郎
今世界は100年に一度の自動車革命の只中にある。ガソリンを一切使わない電気自動車・EV。世界の年間販売数は1000万台を超え、ヨーロッパや中国では新車の2割り近くとなった。その先駆者となったのが電気自動車「リーフ」だった。開発したのは日陰部署にいた技術者たち。これは友と力を合わせ前人未到の壁を突破した執念の物語。
- キーワード
- リーフ
オープニング映像。
2010年に世界で初めて量産化に成功した5人乗りの電気自動車「リーフ」。充電口が2つあり、急速充電、家庭で充電できるようにもなっている。完全に電池のみで動く車なのでマフラーもない。開発したのは日産自動車のEV開発部。ガソリン車全盛の時代はいわゆる日陰部署だった。
1991年、バブルの余波を受け日本の自動車業界は空前の好景気を謳歌していた。日産自動車もデザインや高出力のエンジンを売りにし新型車を世に送り出していた。そんな中、アメリカ・カリフォルニアで大気汚染への対策が打ち出された。それは7年後までに排気ガスを出さない車を一定数販売しなければ巨額の罰金を科すというものだった。まだ実用化には程遠い技術だったが50人のチームEV開発部が作られた。門田英稔は主力車の開発部門から移動して生きた。門田は左遷だと肩を落としたという。電池開発を担当した宮本丈司は他の部署から冷ややかな目で見られてた。日陰部署と揶揄されたEV開発部。そこに志願してきたのが入社4年目の枚田典彦だった。枚田は電池の担当となった。枚田は幼い頃、毎週、父とドライブに出かけて父は訪れた場所を地図に記していたという。枚田はいつか自分で開発した車で両親をドライブに連れていくのが夢だった。EVでもなんでもいいと胸を踊らせて飛び込んできたという。9年かけ、電池の性能やモーターのパワーを進化させていった。しかしその矢先、日産はバブル期の設備投資のつけで2.9兆円の負債を抱え経営破綻の危機に追い込まれた。そんな中、あのカルロス・ゴーンがやってきた。EV開発部の努力は認められずメンバーは散り散りになっていった。宮本と枚田はこれまでの開発を無駄にしたくないと開発をやめなかった。毎年部署を転々とさせられ流浪の民と呼ばれるようになった。2人が目をつけていたのがリチウムイオン電池。しかし車には無理だと反対された。熱や衝撃で発火しやすいため生産する工場で火災も起きていた。8年後の2007年、カルロス・ゴーンが門田にEVのために動いてくれと命じた。開発期間は3年。門田は散り散りになったEV開発部を招集し「5人乗りのファイリータイプ。1回の充電で160kmを走破する」と言った。
電池開発をした枚田典彦は「必ず電気自動車は必要になってくると思っていた。やり続けることが重要だと思っていた」などと話した。EV開発で、特に困難だったのが電池だったという。
2008年春、工場の脇にあるプレハブ小屋で枚田たちの電気開発が始まった。作戦はまずセルを開発。それを192個繋ぎ、鋼のパックに収容するもの。開発が始まって4か月。生産技術リーダの岸田郁夫が電池の開発状況を聞きにやって来た。枚田はデータを取っている途中で材料も作り方もわからないと答えた。この答えに岸田は怒りをあらわにした。岸田の生産技術部は量産化の納期を守ることが最重要課題だった。遺された期間は2年半しかない。そのため開発と同時並行で工場も作る必要があった。岸田は独断で製造工程表を作り始めた。工程表は開発の意見を無視したものだったのでこれに枚田は激怒した。この険悪な2人に挟まれたので電池開発パック担当の平井敏郎だった。さらに開発中に電池が燃える事故が頻発した。リチウムイオン電池は材料や作り方を誤ると大きな爆発を起こしてしまう。発売まで残り1年半、3人は窮地に立たされていた。
岸田と枚田の当時の関係性を聞かれ平井敏郎は「正直いうと、もっと悪かった。チームでもめてたので、僕は行きたくなくて漫喫で時間を潰し、コンビニでお菓子を買ってみんなに配ってた」などと話した。岸田は「当時、電池の作り方は違ってことがわからなくて、枚田さんの気持ちはわからなかった」などと話した。
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- 日産自動車
2009年、開発するEVは「リーフ」と名付けられ初めて世に公開された。発売時期も1年後の冬だと発表された。ゴーンは搭載している電池の性能を高らかにうたいあげていた。しかしこのときの電池は材料も工程も決まっていなかった。枚田は「もう逃げられない、内輪もめはやめよう。今後はこの3人で全てのことを決定しよう」と岸田、平井に言い「自分たちにまかせてくれ」と役員会で宣言した。その日以来、3人は部下を帰したあと毎日集まることにした。こうしてどんな事故でも電池を守れる骨組みを作り上げた。しかし、最後に電池の寿命がどうしても乗り越えられなかった。10年を目標としていたが1年足らずで消耗してしまう。その時、上司の宮本が元パナソニックの技術者・新田芳明をスカウトしてきた。新田は原因を突き止めた。NECから出向していた電池のスペシャリスト・雨宮千夏はある工程が気になっていた。その工程がシワを伸ばす工程だった。枚田たちは藁にも縋る思いで電池を伸ばしてみた。すると電解液が均等に染み込んだ。電池の需要は劇的にあがった。岸田は14台のシワ伸ばし機を作り上げ、完成間近の工場にねじ込んだ。電池の量産が始まったのは発売2か月前だった。2010年12月「リーフ」は販売を開始。翌年、リーフは世界のカー・オブ・ザ・イヤーを総なめにした。
一大プロジェクトを成し遂げられた最大の理由は?と聞かれ枚田は「信頼関係。色んな方がサポートしてれた」などと話した。スタジオにEV自動車が登場。3人で乗るのは初めてだという。
リーフの発売後、他のメーカーも続々と参入しEV時代の幕が開いた。今販売数でトップを走るのは中国と米国のメーカー。日本メーカーは大きく後れを取っている。しかし大きな誇りがある。販売数70万台に迫っても電池の発火による人身事故はゼロ。安全性は世界で高く評価されている。日産はその後、電池の開発部門だけを残し生産工場を他社へ譲渡した。枚田典彦さんは今も日産に残り電池開発のトップとなった。一方2人は日産を離れそれぞれの道を歩んでいる。平井敏郎さんはベンチャー企業を立ち上げ小型EVの開発を進めている。岸田郁夫さんは中国へと渡り電池を生産する会社を設立。今年、新たな工場を建設し生産を開始する予定。岸田さんは日本に帰国する度楽しみにしていることがある。それは3人で再会し語らうことだった。
エンディング映像。
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