1991年、バブルの余波を受け日本の自動車業界は空前の好景気を謳歌していた。日産自動車もデザインや高出力のエンジンを売りにし新型車を世に送り出していた。そんな中、アメリカ・カリフォルニアで大気汚染への対策が打ち出された。それは7年後までに排気ガスを出さない車を一定数販売しなければ巨額の罰金を科すというものだった。まだ実用化には程遠い技術だったが50人のチームEV開発部が作られた。門田英稔は主力車の開発部門から移動して生きた。門田は左遷だと肩を落としたという。電池開発を担当した宮本丈司は他の部署から冷ややかな目で見られてた。日陰部署と揶揄されたEV開発部。そこに志願してきたのが入社4年目の枚田典彦だった。枚田は電池の担当となった。枚田は幼い頃、毎週、父とドライブに出かけて父は訪れた場所を地図に記していたという。枚田はいつか自分で開発した車で両親をドライブに連れていくのが夢だった。EVでもなんでもいいと胸を踊らせて飛び込んできたという。9年かけ、電池の性能やモーターのパワーを進化させていった。しかしその矢先、日産はバブル期の設備投資のつけで2.9兆円の負債を抱え経営破綻の危機に追い込まれた。そんな中、あのカルロス・ゴーンがやってきた。EV開発部の努力は認められずメンバーは散り散りになっていった。宮本と枚田はこれまでの開発を無駄にしたくないと開発をやめなかった。毎年部署を転々とさせられ流浪の民と呼ばれるようになった。2人が目をつけていたのがリチウムイオン電池。しかし車には無理だと反対された。熱や衝撃で発火しやすいため生産する工場で火災も起きていた。8年後の2007年、カルロス・ゴーンが門田にEVのために動いてくれと命じた。開発期間は3年。門田は散り散りになったEV開発部を招集し「5人乗りのファイリータイプ。1回の充電で160kmを走破する」と言った。