原爆投下から78年。自らの被爆の体験を伝え続けようと改めて決意を固め、精力的に取り組む一人の女性を取材した。田中稔子さん(84)は70代後半から英語を学び、世界90以上に国と地域で証言や交流をしてきた。今も、週2回ほどのペースで被爆体験を語っている。1945年8月6日、当時6歳だった田中さんは、爆心地から約2.3キロの自宅近くで被爆し、親戚をなくなり、自身も火傷を負った。なぜ自分は生き残ったのか、その思いを拭えず60年以上自らの体験を話すことが出来なかった。転機は70歳の時に国際交流で掛けられた「あなたは被爆者として核の危険性 惨状を話す責任がある」という言葉だったという。そして5月に被爆地広島で開かれたG7広島サミット。各国首脳が原爆資料館を視察し、被爆者と面会した。サミットでは核軍縮に焦点を当てた声明・広島ビジョンが発表された。田中稔子さんは声明について、「被爆者としての思いの乖離がすごくある 核兵器が戦争を抑止したでしょうか」など納得がいくものではなかったと話していた。更にサミットからもウクライナの戦況が悪化。核の脅威が高まることに危機感を抱いている。
今田中さんはこれまで以上に世界の人とのつながりを大切にしようとしている。この日広島を案内したのはアメリカ人の夫婦。異なる国の人同士が草の根で交流することの大切さを語りかけた。二人を連れて向かったのは広島・中区の平和公園。G7広島サミットで各国の首脳が食事をした桜の木を案内した。田中稔子さんは、「でも個人でも若い人でもどんな年寄りでも出来ることは心を開いて世界の人がつながることだと思っている それは誰でも出来ることなんですよね」と語っていた。
今田中さんはこれまで以上に世界の人とのつながりを大切にしようとしている。この日広島を案内したのはアメリカ人の夫婦。異なる国の人同士が草の根で交流することの大切さを語りかけた。二人を連れて向かったのは広島・中区の平和公園。G7広島サミットで各国の首脳が食事をした桜の木を案内した。田中稔子さんは、「でも個人でも若い人でもどんな年寄りでも出来ることは心を開いて世界の人がつながることだと思っている それは誰でも出来ることなんですよね」と語っていた。
住所: 広島県広島市中区中島町1-2
URL: http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
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