尾張藩初代藩主の義直は12歳の時、病から快復すると、義直の母に贈られた書状で徳川家康は安堵していたという。また、義直は17歳の誕生日、家康から名古屋城がプレゼントされた。清須の家々、寺社も名古屋に移転し、住民約6万人も移住することとなった。1623年、義直にとって4歳年下の甥、家光が3代将軍に就任した。義直は東海道の結節点もいえる場所の海を埋め立て、壮大な御殿を築いた。家光は尾張藩に対し、御殿をつくらないよう達しを出すも、義直は無視。1633年、家光は病に倒れ、大名たちが見舞いに訪れるが、家光は駆けつけた義直と面会しなかった。義直は家光との関係修復を模索するなか、家光が名古屋に立ち寄ることが分かった。
義直は家光をもてなすべく、名古屋城の本丸御殿を改築した。絢爛豪華な一室をつくった他、家康が清洲城を訪れた際に使用した部屋を移築した。もてなしなのか、「俺の領地には家康公が使った建物がある」というアピールなのかは分からない。
義直は家光をもてなすべく、名古屋城の本丸御殿を改築した。絢爛豪華な一室をつくった他、家康が清洲城を訪れた際に使用した部屋を移築した。もてなしなのか、「俺の領地には家康公が使った建物がある」というアピールなのかは分からない。