大阪府内のアパートに住む斎藤博子さん(85)は、65年前、北朝鮮が推し進めた帰還事業に応じ、在日朝鮮人の夫やその家族とともに北朝鮮へ渡った。博子さんのような日本人妻も約1800人いたとされている。当初、博子さんは日本を離れることに抵抗していたが、夫から「子どももやらないし、紐でくくってでも連れて行く」と言われたそう。揺れる博子さんの背中を押したのは「3年経ったら日本に帰国できる」という言葉。博子さんはその言葉を信じて北朝鮮へと渡った。船内は新天地への希望を抱いた人々の楽しげな声で溢れていた。しかし、北朝鮮の港が近づき、人々は異変を感じたという。その後、帰国者たちは指定された居住地へ。一家にはアパートの一室が充てがわれた。聞いていた“楽園”の暮らしとは程遠く、月に2回、米と小麦粉などの配給があったが、1週間も底を突く量だったという。満足に食事ができない日々。「3年経ったら日本に帰国できる」、北朝鮮へ渡った当初に抱いていた希望もついに果たされることはなかった。多くの子どもを産み育てることが奨励されていた時代。博子さんは北朝鮮に渡ってから5人の子どもを出産。2男4女の母として懸命に生きた。結核で夫を亡くしてからは困窮ぶりは深刻化。さらに、金日成主席が死去し金正日総書記体制に移行してから、経済政策の失敗・自然災害などにより深刻な飢饉が発生。北朝鮮の推定死者は約300万人ともいわれている。
博子さんは仕入れた銅線を闇市で売りさばくことで何とか食いつないでいた。摘発されれば罰せられる危険な行為だがそうでもしないと生きていけなかったという。ある時列車で赤ん坊を抱いた若い母親と乗り合わせた時、泣かない赤ん坊に違和感を覚えたという。その後銅線を隠し持っていることが警察にバレて一つ残らず没収されてしまった博子さん。さらに赤ん坊を抱いていた女性も連行されてきた。抱いていた赤ん坊はすでに死亡していておなかの中に銅線を隠して運ぼうとしていたという。博子さんは銅線を没収されただけですぐに解放されたものの女性がその後どうなったかは不明だという。このショッキングな出来事をきっかけに銅線の密売から足を洗った博子さん。しかし長女・弥生さんと二女・光恵さんが相次いで銅線の密売で刑務所へ。光恵さんは刑期を終えて出所できたものの弥生さんはその後刑務所内で亡くなったことを知る。そして同じ頃、三女も栄養失調で亡くすこととなる。
北朝鮮に渡って40年が経とうとしていた2001年、中国人ブローカーが訪ねてきた。博子さんの実家から送金してもらう手助けをする代わりに手数料を得ようと考えていた。このどうにもならない生活を変えられるかもしれないと決心しブローカーと共に中国へ渡ることに。季節は真冬、極寒の中朝国境の川を決死の思いで渡りおよそ半月かけて中国・延吉市へとたどり着いた。そして福井・鯖江市に住む母親に電話をかけたが繋がることはなかった。呆然とする博子さんにブローカーは日本で働くことを提案。ブローカーは博子さんの戸籍を取り寄せ北京にある日本大使館に連絡し帰国への段取りが整った。2001年8月、40年ぶりに日本の土を踏むこととなる。すぐに故郷・福井県の母親の元へ向かった。この時母は認知症を患い入院していたという。その後都内のスーパーで働きながら北朝鮮に残してきた子どもや孫にお金を送り続けた。そして四女・里美さんと2人の孫を脱北させ日本へと連れ帰った。一方、二男・昌道さんと長男・昌日さんは病気で亡くした。今もなお北朝鮮には二女・光恵さんと孫が残っているが安否は不明のまま。博子さんは2018年、脱北者らと共に北朝鮮に損害賠償を求める裁判を起こした。ことし1月、ついに裁判が終結。
博子さんは仕入れた銅線を闇市で売りさばくことで何とか食いつないでいた。摘発されれば罰せられる危険な行為だがそうでもしないと生きていけなかったという。ある時列車で赤ん坊を抱いた若い母親と乗り合わせた時、泣かない赤ん坊に違和感を覚えたという。その後銅線を隠し持っていることが警察にバレて一つ残らず没収されてしまった博子さん。さらに赤ん坊を抱いていた女性も連行されてきた。抱いていた赤ん坊はすでに死亡していておなかの中に銅線を隠して運ぼうとしていたという。博子さんは銅線を没収されただけですぐに解放されたものの女性がその後どうなったかは不明だという。このショッキングな出来事をきっかけに銅線の密売から足を洗った博子さん。しかし長女・弥生さんと二女・光恵さんが相次いで銅線の密売で刑務所へ。光恵さんは刑期を終えて出所できたものの弥生さんはその後刑務所内で亡くなったことを知る。そして同じ頃、三女も栄養失調で亡くすこととなる。
北朝鮮に渡って40年が経とうとしていた2001年、中国人ブローカーが訪ねてきた。博子さんの実家から送金してもらう手助けをする代わりに手数料を得ようと考えていた。このどうにもならない生活を変えられるかもしれないと決心しブローカーと共に中国へ渡ることに。季節は真冬、極寒の中朝国境の川を決死の思いで渡りおよそ半月かけて中国・延吉市へとたどり着いた。そして福井・鯖江市に住む母親に電話をかけたが繋がることはなかった。呆然とする博子さんにブローカーは日本で働くことを提案。ブローカーは博子さんの戸籍を取り寄せ北京にある日本大使館に連絡し帰国への段取りが整った。2001年8月、40年ぶりに日本の土を踏むこととなる。すぐに故郷・福井県の母親の元へ向かった。この時母は認知症を患い入院していたという。その後都内のスーパーで働きながら北朝鮮に残してきた子どもや孫にお金を送り続けた。そして四女・里美さんと2人の孫を脱北させ日本へと連れ帰った。一方、二男・昌道さんと長男・昌日さんは病気で亡くした。今もなお北朝鮮には二女・光恵さんと孫が残っているが安否は不明のまま。博子さんは2018年、脱北者らと共に北朝鮮に損害賠償を求める裁判を起こした。ことし1月、ついに裁判が終結。
