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「日中戦争」 のテレビ露出情報

過酷な戦争体験によりこころを壊されていった兵士たちの貴重な映像が残されている。手足の痙攣が止まらず、字がうまく書けない兵士。コップの水を飲むことも難しい。立ち上がったり歩いたりすることが困難で倒れてしまう兵士も。当時は、戦争神経症と呼ばれ、痙攣や発作を起こす兵士も多かった。だが軍は精神疾患の兵士は一人もいないとして、その存在を否定した。そんな兵士たちを国民の目から逸らすため、軍はある施設に収容した。千葉県市川市に開設された国府台陸軍病院。日中戦争が拡大した1938年から太平洋戦争が終わるまでの7年間、1万人を超える精神疾患兵士を収容。全国から優秀な軍医を集め、秘密裏に研究も行われていた。兵士たちのカルテのコピーが千葉県東金市の浅井病院に保管されている。カルテを隠して今に残した軍医の1人、浅井病院初代院長・浅井利勇氏。自らの著書で「これらの患者は、考えてみると大戦がなければ、あるいは彼らが経験したような人生の悲劇をせずに済んだかもしれない」と述べている。利勇氏の孫にあたる浅井禎之理事長は「軍の命令に背くのは命がけの行為だったと思う。患者1人1人の叫びの刻まれている」と話した。残された800人分のカルテ。そこには戦地での加害行為などにより精神に異常をきたした兵士たちの声が細かく記録されていた。当時、精神疾患の兵士たちに有効な薬や治療はほとんどなかった。そんな中で頻繁に行われていたのが電撃療法。1930年代半ばに開発された治療法で、こめかみに機械を当て電気を流し、脳の機能の回復を促す。戦後、国府台病院に勤務し、電撃療法を間近で見てきた元看護師の久保栄子さんは「患者さんは皆嫌がる。「治るから」と婦長さんが言って」などと説明した。だが症状の改善は難しく、原隊に復帰できる兵士は少なかった。国府台陸軍病院の近くで生まれ育った平井宏冶さん、85歳。当時、地域では病院や兵士たちのことを語るのはタブーだったという。軍はなぜ兵士たちの存在を隠そうとしたのか。埼玉大学・細渕富夫名誉教授は「精神疾患は名誉の負傷というよりも恥。本人にとっても郷里にとっても恥。少なく見えなくすることが軍上層部の方針としてあったと思う」と説明した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2026年8月15日放送 18:56 - 21:54 テレビ朝日
池上彰のニュースそうだったのか!!実は知らない日本SP
1941年12月8日の真珠湾攻撃について正しく伝わっていないことがある。じつは真珠湾攻撃が最初ではない。この日に他に攻撃した場所がある。真珠湾攻撃の2時間前に、マレーシアを攻撃。当時イギリス軍の拠点があった場所に日本が上陸させた。日本は石油が欲しかったから戦争を仕掛けた。アメリカの経済制裁で石油が不足していた。インドネシアを占領しようとマレー半島と真珠湾を攻[…続きを読む]

2026年8月15日放送 17:30 - 18:50 TBS
報道特集(特集)
第一次世界大戦が戦争の形を変えた。総力戦と呼ばれる国家をあげた戦いに一般市民も最前線に送り出された。戦車や機関銃、次々と投入される新兵器。長時間にわたる塹壕戦のストレスが兵士たちに重くのしかかった。突然の痙攣や歩行障害などの症状はシェルショック(砲弾ショック)と呼ばれた。1937年7月、日中戦争勃発。戦線の拡大とともに日本の兵士たちにも精神的な変調を訴える者[…続きを読む]

2026年8月15日放送 4:00 - 4:45 TBS
TBS NEWS(ニュース)
日本赤十字社が全国から看護婦を召集するために配った紙。19歳の時にこの赤紙を受け取り、従軍看護婦として戦地に赴いた森原敏子さん(102)。従軍看護婦とは、陸海軍の監督下で軍医や衛生兵と共に日本兵の看護をしたナースの通称。このうち日赤の養成所を卒業した人は、救護看護婦とよばれ、国内外の病院に約3万人が派遣された。敏子さんも看護婦を目指した1人。この頃看護婦は女[…続きを読む]

2026年8月14日放送 15:49 - 19:00 TBS
NスタNO WAR つなぐ、つながる
日本赤十字社が全国から看護婦を召集するために配った紙。19歳の時にこの赤紙を受け取り、従軍看護婦として戦地に赴いた森原敏子さん(102)。従軍看護婦とは、陸海軍の監督下で軍医や衛生兵と共に日本兵の看護をしたナースの通称。このうち日赤の養成所を卒業した人は、救護看護婦とよばれ、国内外の病院に約3万人が派遣された。敏子さんも看護婦を目指した1人。この頃看護婦は女[…続きを読む]

2026年8月12日放送 23:00 - 23:56 TBS
news23NO WAR つなぐ、つながる
京都霊山護国神社で1941年に撮影された写真には戦地に送り出された兵士たちの家族たちが写っており、その女性たちは敗戦後に過酷な運命を歩むこととなった。京都市で暮らす103歳の小西はヘルパーとともにケアハウスから自宅に戻っていた。自宅で小西は結婚当時の写真などを整理していた。婚姻数の推移を紹介。小西は戦時中には産めよ殖やせよと女が子どもを産む機械みたいに言われ[…続きを読む]

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