禎穂の誕生から2年後に太平洋戦争が勃発。当時40歳の七之助はゼロ戦のテスト飛行を続けていたが、戦況が悪くなると七之助が開発に携わった戦闘機は特攻に使用されていった。昭和20年、終戦を迎え、豊かだった前田家の暮らしは一変し貧しいものに変わった。禎穂は両親の運動神経を受け継ぎ活発な子供時代を過ごす。昭和27年のヘルシンキ五輪で日本が体操で金メダルを獲得したことに感化された禎穂は木更津高等学校の体操部へ入部。日本体育大学へと進学しオリンピックを目指したが、負傷により夢を諦めざるをえない状況となった。失意の日々を送っていたが、思い立って応募した東映のオーディションで26000人中トップ合格を果たす。昭和35年、禎穂は千葉真一として俳優デビュー。持ち前の身体能力でスタントマンを使わない撮影に挑み、すぐにアクションスターへと駆け上がった。昭和45年には俳優を養成するジャパン・アクション・クラブを設立。平成4年にはハリウッド映画「エイセス/大空の誓い」に出演した。