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「明治三陸津波」 のテレビ露出情報

東北沖で発生した巨大津波は三陸の沿岸に押し寄せ、1時間後には仙台平野に到達した。証言や調査から人が逃げ遅れるときの傾向が見えてきた。石巻市で被災した草島真人さんの当日の行動を再現。津波を背に高台へ車を走らせ、間一髪で助かった。
石巻市では1200人分の詳細な避難行動が明らかになってきた。津波から逃げ遅れやすいのは外出先にいたケース。家族や自宅の被害が気になって、避難が遅れていた。もう一つリスクが高かったのは、自宅兼店舗にいた人たち。嶺岸美紗子さんは文房具店を兼ねた自宅にいた。両親と祖母は散乱した商品の片付けにかかりきりになり、家ごと津波に飲まれた。
宮城県名取市閖上。津波で700人以上が犠牲になった。住民2400人の避難行動から、逃げる意思がありながら自宅にとどまった人が一定数いたことが分かった。阿部好二さんは妻と娘を亡くした。閖上では防災無線が鳴らず、避難の決断を下しにくい状況だった。妻と娘は40分以上、近所の人と避難の相談をしていて逃げ遅れたという。
いち早く避難した佐藤謙次さんは、自宅のラジオで津波の情報を聞き、近所の人にも避難を呼び掛けた。周りの4世帯8人も次々と避難。一帯では他にも4か所で1人の呼び掛けをきっかけに避難が始まっていた。危機に気付いた住民が5人いただけで44人の命が救われていた。率先避難者に影響され、危機に気付かなかった人たちも行動を開始する。調査では1182人のうち977人が周囲からの影響で避難していた。
地震発生から1時間。閖上に津波が迫る中、率先避難がさらに大規模な避難行動を呼び起こしていた。閖上公民館に集まっていた400人の住民は、さらに500m内陸にある閖上中学校へ避難。きっかけになったのは、公民館長の恵美雅信さんが公民館を超える高さの津波が迫っていることを伝えたことだった。移動が始まって15分後、9mを超える津波が町を襲った。公民館にいた人のうち60人以上が犠牲になった。
東日本大震災では避難所でも津波による犠牲が相次いだ。宮城県気仙沼市階上地区では、避難場所だった杉ノ下高台で50人以上が亡くなった。高台が避難場所に選ばれたのは、過去の災害の経験からだった。過去の経験を大きく上回る高さ15m以上の津波に襲われ、助かったのは6人だけだった。
避難所から再び避難して多くの命が救われたケースもある。宮城県石巻市南浜・門脇・雲雀野地区では、住民の多くは門脇小学校に避難していたが、津波は想定を超えて小学校にも到達。火災も発生し、545人が犠牲になった。調査では、強い危機感がなかったにもかかわらず、より高い日和山に逃れてきた人がいたことが分かった。
地震発生から15分後、避難所の門脇小学校から日和山へ移動を始めた集団がある。先頭を切ったのは校長の鈴木洋子さん。安全とされていた小学校から224人の児童を避難させた。学校では日頃から日和山へ避難する訓練を行っていた。児童・教員が率先避難したことで、保護者たちも後を追って避難した。
児童・保護者が日和山へ逃れた後、門脇小学校に集まってきた住民たちも日和山を目指してさらに避難を重ねた。石川芳恵さんは、津波への危機感はほとんどなかったが、知人女性からの呼び掛けで日和山へ避難した。学校にとどまっていた教員を通じて、学校と関係の薄い住民にも避難の連鎖が続いたという。避難行動の分析にあたった牧野嶋文泰さんは、この様子を避難のカスケードと名付けた。これが今後の地域防災を考える鍵になるという。
最悪の場合32万人の犠牲が想定される南海トラフ巨大地震。徳島県小松島市金磯町では、率先避難に注目した取り組みを続けている。企業が中心になって、激しい揺れがあれば率先して避難することを決めている。大声で避難を呼び掛けながら逃げることで地域住民の避難を促す。18社が率先避難企業として役割を担っている。高知県黒潮町では、より遠くまで避難し続ける取り組みを始めた。まず津波の指定避難所である小学校に避難し、さらに高台の避難場所に行く訓練を続けている。
東日本大震災から10年。貴重な証言から生死を分けた避難行動が見えてきた。生き延びた人々は今も自らの行動と向き合い続けている。避難のカスケードで命を救われた石川芳恵さんは、逃げようとみんなに言える人になりたいと話した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年3月17日放送 10:05 - 10:50 NHK総合
明日をまもるナビ(明日をまもるナビ)
岩手県の災害伝承碑を紹介。石碑には「此処より下に家を建てるな」と書かれている。大槌町安渡地区の津波の犠牲者は人口の1割以上の210人以上とされている。津波の到達地点には木碑が建てられた。

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