今回の運命の分岐点は1972年11月18日。この日から「木枯し紋次郎」と「必殺仕掛人」の両番組によるバトルが始まったという。最初の視点は木枯し紋次郎を演じた俳優の中村敦夫。当時の時代劇は勧善懲悪で家族でも観られるものだったが、「木枯し紋次郎」は新しいアウトローな主人公で、ドラマは大ヒットした。作品は市川崑と映画会社の大映によって作られてた。しかしその後、大映が経営不振で破綻に追い込まれた。そのため市川崑が提案して「木枯し紋次郎」のスタッフが会社を立ち上げて、「木枯し紋次郎」が放送されることになった。
当時、フジテレビ入社5年目だった杉田成道は「木枯し紋次郎」に当時学生運動に参加していた学生を重ねていたと語った。「木枯し紋次郎」の人気で、その煽りを受けたのが裏番組のプロデューサーの山内久司だ。そこで山内久司は金をもらって悪人を殺す「必殺仕掛人」を企画して放送することにした。
当時、フジテレビ入社5年目だった杉田成道は「木枯し紋次郎」に当時学生運動に参加していた学生を重ねていたと語った。「木枯し紋次郎」の人気で、その煽りを受けたのが裏番組のプロデューサーの山内久司だ。そこで山内久司は金をもらって悪人を殺す「必殺仕掛人」を企画して放送することにした。