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「村尾」 のテレビ露出情報

次の依頼人、栃木県栃木市から来た四本紘一さんのお宝は「西郷隆盛が別府晋介に宛てた書状」。半世紀ほど前に友人の家に飾ってあったお宝を50万円で譲ってもらったものということ。1853年アメリカの黒船が来航、マシュー・ペリー提督に開国を迫られた江戸幕府は対応に右往左往し弱体が露呈した。危機感を感じ改革しようと立ち上がった水戸藩の徳川斉昭、西郷が仕えた薩摩藩主島津斉彬らで体が弱かった13大将軍徳川家定に見切りを付け、次期将軍に一橋慶喜をと動く。対し彦根藩井伊直弼が紀州徳川の徳川慶福の擁立を画策したため対立し朝廷を味方にと京都で諜報戦を繰り広げた。西郷も朝廷の要職近衛家に慶喜を推挙してほしいと働きかけた。西郷は清水寺の塔頭の住職だが尊王攘夷思想の月照と出会ったが以前から水戸藩京都留守居役や尊王攘夷派の梅田雲浜らとつながりを持っていた。月照は関白の鷹司家とも親交があり連絡係として活躍し朝廷内では一時慶喜を次期将軍にと傾いていったが南紀派が巻き返して工作に成功し慶福推挙に転換した。南紀派井伊直弼が大老に就任すると正式に慶福が次期将軍に内定、井伊は政敵の一橋派を弾圧すべく動き安政の大獄を起こす。最中に実の父以上の存在の島津斉彬急死の知らせが届き西郷は絶望の中殉死を決意するが月照が諭し思いとどまらせた。弾圧から月照の身にも危険が迫り西郷は共に薩摩へと逃れたが保守派が主流となった薩摩藩では月照を国境で死罪にすることを意味する日向国へ追放を決定した。西郷は共に死ぬことを決意、1858年11月16日に船の上から錦江湾に入水したが月照は死去したが西郷は奇跡的に命をとりとめた。後、一度は無くした命と懸命に働き明治維新の立役者になった。お宝の書状の別府晋介は西郷の腹心の1人で西南戦争で西郷を介錯、内容は月照の月命日に酒を交わさないかと誘うものだった。

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