原田瑞希さんは21歳で海上保安庁に新人管制官。瀬戸内海の難所の来島海峡は事故が起こりやすく船乗りたちを悩ませてきた。時に時速20キロにのぼり、激しい潮流があり巻きこまれると途端に舵が効きにくくなる。海の管制官たちはまさに命綱で判断ミスは許されない。事故を防いで当然と言われる厳しい世界で働く原田さんに密着した。愛媛と広島を結ぶしまなみ海道。海上保安庁来島海峡海上交通センターで働く原田さんは夜勤で、18時間に及ぶ長い勤務が始まった。来島海峡に行き交う船は1日500隻ほど。管制卓に船の情報や潮の流れなどを頭に叩き込む。管制科には36名が所属し、24時間二交代制で管制業務にあたる。来島海峡のほぼ中央に位置する馬島をさかいに分割。この日原田さんは西海域を担当した。更に全海域を監視する管制官がそれをバックアップする。仕事を始めて1年も立たない原田さんには背中を追う人がいる。統括管制官の大野豊成さんは、管制歴21年で周囲から一目置かれる存在。
午後6時過ぎに一隻の船を気にしだした原田さん。スピードを上げたり下げたりと動きが読めない。無線機をとった原田さんはその船のN27のすぐ後ろを走るN29。周囲の船に注意を促して事故を未然に防ぐのも管制官の大切な役目。船長に対して絶対的な権限が与えられている海では、必要な情報を的確に伝えて船長に判断を委ねる他ない。午前1時30分に遅めの夕食をとる原田さん。18時間の勤務の内休憩は3時間。夜勤は余暇に一度回ってくる。来島マーチスが管制を始めたのは1998年1月1日。それまでにこの海を管制するものは誰もいなかった。それ以前には100トンを超える船だけみても例年に10隻近く船が事故に遭い何人も命を落としてきた。今では、以前の10分1にまで激減した。しかし、0にはならないという。船長の権限が絶対という海で安全をどう守るか模索する日々が続く。
転流は潮の流れがとまる状態を指し、その後に流れが反転するという現象。来島海峡は4度こうした現象が発生する。潮の流れに載ると船の速度はあがる反面舵が効きにくくなる。安全のために来島海峡独自のルールが法律でつくられている。来島海峡の中心にある馬島は中央分離帯で通常九州方面に向かう船は島の東側を通る。しかし潮の流れが反転すると船の進行方向も反転し、この区間だけ左側通行になる。進行方向を入れ替える最初の船をどれにするか決めるのは管制官。ベテランですら難しい対応に原田さんは挑もうとしている。船の数が格段に増える夜の来島海峡。原田さんが考えたのはN66と表示された船から切り替えるというもの。航路までの距離は十分で一見安全に見える。しかし速度が遅く来島海峡に差し掛かると反対の船と接近。衝突する可能性は拭えない。別の船から入れ替えるように統括から指示がくだった。そして入れ替えは完了した。
休日に原田さんがやってきたのはパンケーキが人気の地元のカフェ。進めてくれたのは意外な人物で大野さんだったという。原田さんは山口県出身で海上保安庁に勤める父の進めもあって高校卒業後に海上保安学校に進学した。海の管制官を目指すことにした。猛勉強の末に管制官の任用試験に同期で最初に合格した。配属を希望したのは全国七箇所あるうちの最も過酷と言われる来島マーチスだった。しかし想像を上回る世界で、無線で何を伝えればいいかわからないという状況になり、何故選んでしまったのかと後悔したこともあったという。悩む原田さんに大野さんが声をかけ激励してくれたという。原田さんはまず録音された先輩の無線を繰り返し聞くことから始め、大野さんから声をかけられた言葉をノートに記して何度も何度も読み返した。
2ヶ月後、原田さんはこの日も夜勤だが大野さんは休みだという。海を俯瞰し最も安全な作を考え抜く。その結果原田さんの策が採用された。
午後6時過ぎに一隻の船を気にしだした原田さん。スピードを上げたり下げたりと動きが読めない。無線機をとった原田さんはその船のN27のすぐ後ろを走るN29。周囲の船に注意を促して事故を未然に防ぐのも管制官の大切な役目。船長に対して絶対的な権限が与えられている海では、必要な情報を的確に伝えて船長に判断を委ねる他ない。午前1時30分に遅めの夕食をとる原田さん。18時間の勤務の内休憩は3時間。夜勤は余暇に一度回ってくる。来島マーチスが管制を始めたのは1998年1月1日。それまでにこの海を管制するものは誰もいなかった。それ以前には100トンを超える船だけみても例年に10隻近く船が事故に遭い何人も命を落としてきた。今では、以前の10分1にまで激減した。しかし、0にはならないという。船長の権限が絶対という海で安全をどう守るか模索する日々が続く。
転流は潮の流れがとまる状態を指し、その後に流れが反転するという現象。来島海峡は4度こうした現象が発生する。潮の流れに載ると船の速度はあがる反面舵が効きにくくなる。安全のために来島海峡独自のルールが法律でつくられている。来島海峡の中心にある馬島は中央分離帯で通常九州方面に向かう船は島の東側を通る。しかし潮の流れが反転すると船の進行方向も反転し、この区間だけ左側通行になる。進行方向を入れ替える最初の船をどれにするか決めるのは管制官。ベテランですら難しい対応に原田さんは挑もうとしている。船の数が格段に増える夜の来島海峡。原田さんが考えたのはN66と表示された船から切り替えるというもの。航路までの距離は十分で一見安全に見える。しかし速度が遅く来島海峡に差し掛かると反対の船と接近。衝突する可能性は拭えない。別の船から入れ替えるように統括から指示がくだった。そして入れ替えは完了した。
休日に原田さんがやってきたのはパンケーキが人気の地元のカフェ。進めてくれたのは意外な人物で大野さんだったという。原田さんは山口県出身で海上保安庁に勤める父の進めもあって高校卒業後に海上保安学校に進学した。海の管制官を目指すことにした。猛勉強の末に管制官の任用試験に同期で最初に合格した。配属を希望したのは全国七箇所あるうちの最も過酷と言われる来島マーチスだった。しかし想像を上回る世界で、無線で何を伝えればいいかわからないという状況になり、何故選んでしまったのかと後悔したこともあったという。悩む原田さんに大野さんが声をかけ激励してくれたという。原田さんはまず録音された先輩の無線を繰り返し聞くことから始め、大野さんから声をかけられた言葉をノートに記して何度も何度も読み返した。
2ヶ月後、原田さんはこの日も夜勤だが大野さんは休みだという。海を俯瞰し最も安全な作を考え抜く。その結果原田さんの策が採用された。