今回は東日本大震災で活動した救助隊員を特集。宮城県名取市・閖上は、港町として栄えたこの町は震災前に7000人が暮らしていた。名取市消防本部の職員はおよそ100人。東日本大震災当時、現場と本部が無線でやりとりした100時間の記録が残っている。2011年3月11日、名取市でも震度6強を記録した。午後2時49分には本部から司令に、大津警報発令 閖上1海岸避難誘導とあった。閖上出張所の当直3人は、ポンプ車にのりこみ、海側へ。震災当時には閖上出張所の隊員で当日非番だった石川康裕さんは、地震後に閖上の自宅からすぐに出張所に向かった。町の被害状況を確認しようとバイクを取りに自宅方向へ。その時に異変として、住宅が崩れ始めたのをみたという。津波だとわかって生き返し出張所の方へ走って逃げたという。見慣れた車が目に飛び込んできたというが、閖上のポンプ車と消防団の車両だったという。出張所に逃げ込んだわずか数分後には津波が到達し、その瞬間は近くの建物に避難していたカメラに記録されていた。
閖上地区は壊滅状態だと一報を入れた石川さん。その後無線を呼びかけたが応答はなかったという。津波が到達する7分前の午後3時45分に閖上1は閖上公民館の出動していたが、公民館に退避するという無線を最後に連絡は途絶えた。さらに閖上大橋中間で電柱倒壊事故が発生。地震が原因の交通事故で閖上大橋に出動していた江川圭さん。橋が通行できずに周辺では渋滞が発生。江川さんらは車に乗っていた人々に近くの閖上小学校に避難するよう呼びかけた。その時に川の水が引いていき、津波の規模がどうなのか判断が迫られていたという。その数分後には名取川を遡上する津波を確認。津波は橋桁を越えずに止まったという。同じ現場に駆けつけた草野祐助さんはあの日の光景が忘れられないという。津波の到達直後から救助を求める住民の情報が相次いだ。午後5時21分には名取川付近で車が流され車の上に10名くらい残されていると無線が入った。草野さんも現場に向かうと、しかしボートで向かっても引き潮で厳しく漕いでも動かない状況にあったという。手漕きのボードを使った救助活動が続いた。午前3時42分には最後の2名の救出が完了し10人を助けた。
一夜が明け、被害の実態が明らかになってきた。県内や県外から緊急消防援助隊が続々登場し、救助は加速するかに見えた。しかし、現場は救急車両では入れず徒歩で移動など至る所で道路は寸断。救助に必要な機材も足りていなかった。通信指令員の小坂健次さんのもとには次々と救助要請があり、鳴り止まない状態だったという。さらに閖上小学校には800人が避難し、多くの住民が取り残されていた。地元の消防団だった高野俊伸さんは子どもたちが小学生に、保育所の子どもたちも避難していたという。また老人ホームの人々も逃げていたが透析をしている人を出さないとダメだと考えたという。優先順位の高い住民からに時避難所への誘導が始まった。地震発生から34時間。13日未明に取り残されていた住民の多くが、避難を完了した。厳しい寒さお腹で生存率が急激に低下する72時間の壁が近づいていた。
閖上地区は壊滅状態だと一報を入れた石川さん。その後無線を呼びかけたが応答はなかったという。津波が到達する7分前の午後3時45分に閖上1は閖上公民館の出動していたが、公民館に退避するという無線を最後に連絡は途絶えた。さらに閖上大橋中間で電柱倒壊事故が発生。地震が原因の交通事故で閖上大橋に出動していた江川圭さん。橋が通行できずに周辺では渋滞が発生。江川さんらは車に乗っていた人々に近くの閖上小学校に避難するよう呼びかけた。その時に川の水が引いていき、津波の規模がどうなのか判断が迫られていたという。その数分後には名取川を遡上する津波を確認。津波は橋桁を越えずに止まったという。同じ現場に駆けつけた草野祐助さんはあの日の光景が忘れられないという。津波の到達直後から救助を求める住民の情報が相次いだ。午後5時21分には名取川付近で車が流され車の上に10名くらい残されていると無線が入った。草野さんも現場に向かうと、しかしボートで向かっても引き潮で厳しく漕いでも動かない状況にあったという。手漕きのボードを使った救助活動が続いた。午前3時42分には最後の2名の救出が完了し10人を助けた。
一夜が明け、被害の実態が明らかになってきた。県内や県外から緊急消防援助隊が続々登場し、救助は加速するかに見えた。しかし、現場は救急車両では入れず徒歩で移動など至る所で道路は寸断。救助に必要な機材も足りていなかった。通信指令員の小坂健次さんのもとには次々と救助要請があり、鳴り止まない状態だったという。さらに閖上小学校には800人が避難し、多くの住民が取り残されていた。地元の消防団だった高野俊伸さんは子どもたちが小学生に、保育所の子どもたちも避難していたという。また老人ホームの人々も逃げていたが透析をしている人を出さないとダメだと考えたという。優先順位の高い住民からに時避難所への誘導が始まった。地震発生から34時間。13日未明に取り残されていた住民の多くが、避難を完了した。厳しい寒さお腹で生存率が急激に低下する72時間の壁が近づいていた。
