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「東條英機」 のテレビ露出情報

昭和15年2月、四谷に住んでいた金原さんは一人娘の誕生を機に育児日記を綴りはじめる。開戦の前年であったこの頃、都市部では多くの人が豊かな生活を送っていた。大阪で精米店を営んでいた井上さんはピアノを購入したことを日記に残している。今回はこうした様々な立場の人の日記や手記250人分をAIで解析。登場する650万個の単語をそれぞれビジュアル化した。こうして見えてきた傾向では、1940年の前半に「オムレツ」や「すき焼き」といった単語が登場しているのに対し後半では「配給」「外米」といった単語が増えていることが明らかになった。精米店を切り盛りしていた井上さんの日記にも「政府の配給が遅れている。米が配達できない」と不満を綴っていた。この背景にあったのは泥沼化していた日中戦争で、都市部では市民の贅沢が徐々に禁止されていった。
開戦の前年、女学生であった笠原さんは日記に繰り返しアメリカへの夢や憧れを綴っていた。しかし、欧州で第二次世界大戦が勃発すると、アメリカに代わって破竹の進撃を続けるドイツの存在が大きなものになっていく。同年、日本は日中戦争の早期解決を狙いドイツ・イタリアと三国同盟を締結。これに伴い日本ではナチスドイツが絶大な人気を博したが、その中にあって危機感を抱く人物もいた。後の連合艦隊司令長官・山本五十六は「三国同盟は致し方ないが、日米戦争は回避するよう努力したい」と綴っている。一方。日記の解析データからは国民の多くが三国同盟の真意を理解していなかったことが明らかになった。当時の政府は三国同盟への批判に加えてアメリカへの敵意を煽ることを禁止する言論統制を行っており、政府が対米戦争を強く警戒していたことが伺える。日本は既に日中戦争に多くの資源を投じており、これ以上戦火を広げることは本意ではなかったのだ。戦争を避けるべく日本はアメリカとの親善を演出するが、それはアメリカには通じなかった。アメリカは燃料や屑鉄の輸出を禁じる経済制裁を日本に対して実施し、1941年になるとその歪さは徐々に顕になった。
1941年の1月以降、市民の日記には「不足」といった単語と戦争に関する単語が頻出するようになる。苦しい生活が続く中、市中では徳富蘇峰らが「日本とアメリカは戦うべきだ」と唱え始める。日米情勢が悪化する中、市民の日記には不安が繰り返し綴られていた。41年4月、政府は日米外交交渉を試みるが、この背景には陸軍が極秘で実施した日米の戦力比較があった。このシミュレーション結果について、当時の陸軍将校は「真にやむを得ざる場合以外はやるべきではない」と綴っている。軍や政府はこの結果を受けて日米戦争の回避に乗り出すが、同年6月に勃発したした独ソ戦が思いもよらぬ影響を与えた。
41年7月、日本軍は南部仏印進駐を開始。独ソ戦により日本の背後からソビエトの圧力が消えたことで、日本はアメリカの禁輸政策によって欠乏した資源を行うべく南方資源地帯へと目を向ける。これを受けてアメリカは日本に対する石油の禁輸を決定。思いもよらぬアメリカの強硬策に、日米戦争回避を望んでいた政府や軍部の態度は大きく変わっていった。「石油が足りなくなれば戦争はできない」という強迫観念により冷静さを欠いた政府の下で市民生活は一層困窮し、遂には昆虫食が奨励されるまでに至る。こうした中で、愛国教育を受けた国民たちは協力して危機を乗り切るべく「お国のために」団結することを考え始めた。
愛国心が沸き上がる最中、地方では日中戦争の犠牲が噴出する。米の需要増加に応えるため農村では過酷な労働が続き、召集も相次いだ。そして10月、日米の外交交渉ではアメリカに中国大陸からの撤兵を要求されるが、政府にとってそれは泥沼化した日中戦争の犠牲者を蔑ろにするのと同義とも言える代物。日米戦争か、或いは中国からの撤兵か……日中戦争で犠牲になったあらゆる人々を背に、10月18日には軍人出身の東条英機が首相に就任。市中で反米感情が沸き上がる中、政府は真珠湾攻撃を実施。こうして始まった日米開戦を市民たちは鬱屈とした生活を晴らしてくれると大歓喜で迎えた。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月15日放送 10:25 - 13:00 テレビ朝日
大下容子ワイド!スクランブルNEWSドリル
「 「あの戦争」は何だったのか」を手掛けた辻田真佐憲氏とともに終戦の日について伝える。日本は1931年9月18日に満州事変を起こし翌年に満州国を設立した。37年の7月7日の盧溝橋事件は日中戦争の発端となった。ヨーロッパでは1939年にナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻したことを受けて、英仏が独へ宣戦布告したことで第2次世界大戦が始まることとなる。1941年1[…続きを読む]

2025年8月12日放送 2:09 - 3:03 NHK総合
NHKスペシャル新・ドキュメント太平洋戦争1942【大日本帝国の分岐点 後編】
銃後の市民は東南アジアの状況を知る由もなかった。指導者たちは大東亜共栄圏の理想を市民に語り続けていた。戦況に関する情報が厳しく統制される一方、東條首相はラジオやニュース映画を駆使して、国民の関心を惹きつけていた。戦争の現実と隔てられた銃後。情報が乏しい中で、出征した兵士の家族はその無事を願っていた。

2025年8月2日放送 13:50 - 14:50 NHK総合
土スタ(池松壮亮 終戦80年ドラマ シミュレーション)
東條英機役の佐藤浩市へのインタビュー。葛藤を抱え苦悩する東條英機を演じている。ドラマを通じて開戦がなかったらアジアはどうなっていたのかなどみんなで考えなきゃいけないテーマだと感じたという。池松壮亮の印象について、スタンスもフットワークも変わってきている部分もあるけど大事にしているものは彼の中でキープしているなどと話した。洋一が守りたかった存在は家族。池松は家[…続きを読む]

2025年4月26日放送 17:30 - 18:50 TBS
報道特集(特集)
今年は戦後80年。BC級戦犯はアジア太平洋の50の法廷で裁かれ、920人の死刑が執行されている。

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