2026年4月18日放送 22:00 - 22:30 テレビ東京

新美の巨人たち
【荻窪「荻外荘」×菊川怜】

出演者
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(オープニング)
今回は…

荻窪の荻外荘を特集。菊川怜が巡る。

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旧近衞文麿邸東條英機荻窪(東京)近衞文麿
オープニング

オープニング映像。

新美の巨人たち
シリーズ〈時代の真ん中で〉3昭和編 ユニークな個人住宅「荻外荘」

荻窪の荻外荘は伊藤忠太設計で昭和2年創建の個人住宅。敷地面積はおよそ2000坪で南に面しなだらかな丘の上に立つ。建坪120坪ほどの木造平屋建て。荻外荘とは荻窪の外れにあるという意味とも言われている。戦前の写真をもとに、令和6年に忠実に復元された。設計者の伊藤忠太は築地本願寺などを手掛けた異色の建築家で、日和洋折衷の日本建築を追究し続けた。医師で義兄の入澤達吉の要請を受けて、住宅建築の依頼をされたが自分の思う通りの家を建てたいと申し出た。伊藤忠太に詳しい専門家は住宅を近代的に、施主のために作っいくか挑戦が現れているという。玄関の向かいには、応接間。螺鈿細工が施されたテーブルとイス。天井には龍の絵が4枚。伊藤忠太は、洋館のスタイルである応接間を入澤の中国趣味で設えた。床の敷瓦にも龍のデザインがあり、昭和12年からこの家の主となったのは三度内閣総理大臣を務めた近衞文麿。

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伊藤忠太入澤達吉日本建築学会建築博物館旧近衞文麿邸築地本願寺荻窪駅荻窪(東京)近衞文麿
「荻外荘」の客間 激動の昭和史の舞台

荻外荘が歴史に残る家であることの証が客間。倉方は洋風建築の感触になっていると答えた。昭和15年7月19日のこと、荻窪会談がこの場所で行われた。近衛が招いたのは東条英機ら。

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サイネットフォト吉田善吾日本放送協会旧近衞文麿邸朝日新聞社東條英機松岡洋右荻窪会談荻窪(東京)近衞文麿
国民の期待を背負って 近衛文麿・内閣総理大臣へ

近衞文麿は五摂家筆頭の近衛家の長男で京都帝国大学法科大学を卒業。25歳で貴族院議員に。長身痩躯にして、聡明のほまれ高く気品あふれるその姿に、国民の期待は高まっていた。この頃の日本は中国大陸に進出し、軍部が台頭し、内省は混乱していた。この国難を託せるのは近衛しかいないと言う中で昭和12年に第一次近衛内閣を成立し総理に。

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ゲッティイメージズサイネットフォト京都帝国大学朝日新聞社毎日新聞社近衞文麿
内閣総理大臣・近衛文麿 なぜ「荻外荘」だったのか!?

近衞文麿は五内閣総理大臣になった後にあまりの多忙で眠る時間さえ取れないとしていたが、自宅と官邸が近かったために気分転換もままならいと語っていた。そんな最中、混迷の時代を迎え、住居を移したいと出会ったのが東京の郊外の荻外荘。持ち主は大正天皇の侍医を務めた入澤達吉。近衛が入澤の診察を仰いでいた縁もあり、昭和12年に譲り受けた。始めてこの家に入った日に、近衛はふるさとへ帰った感じがしたと綴っている。日本は中国との戦争が行き詰まり、アメリカとの関係は悪化。ヨーロッパではナチス・ドイツが台頭し、第二次世界大戦が勃発。

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サイネットフォト入澤達吉大正天皇日中戦争日本建築学会建築博物館旧近衞文麿邸朝日新聞社杉並区教育委員会第二次世界大戦近衞文麿
内閣総理大臣・近衛文麿 の家「荻外荘」で起きたこと

風雲急を告げるの時代の中で昭和15年7月19日に荻窪会談が行われた。荻外荘に招かれたのは次期陸軍大臣の東条英機、海軍大臣の吉田善吾、次期外務大臣の松岡洋右だった。専門家は組閣に乗り出すための事前方針を決めていたと答えた。泥沼化する中国問題や、軍事同盟など、内外の重要なテーマを議論。荻外荘だった理由には公式の会談ではなかったことと、自分の家ですることで、自分が主導権を握りたいという思惑があった可能性も高いという。しかし軍事や外交などを強化することで日中戦争を解決しようという意図があったが、これが太平洋戦争につながる原因の1つとなったという。その3日後に第二次近衛内閣が発足。荻外荘は近衛文麿という政治家にとって安息のふるさとで戦いの城でもあった。建築家の伊藤忠太は住宅はい着物のようなもの。住む人にふさわしいものであるべきと考えていた。

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サイネットフォト伊藤忠太吉田善吾太平洋戦争日中戦争日本放送協会旧近衞文麿邸朝日新聞社東條英機松岡洋右荻窪会談近衞文麿
国史跡 荻窪「荻外荘」 建築家・伊藤忠太の創意工夫

荻外荘は住まいとして純粋に美しく優れた建築。その特徴は俯瞰の構図にあり、書院造り風に部屋をずらして配置して雁行型で主要な4つの部屋をすべて南側に設置し、雁行型にすることで、より多角的に光を取り入れる。玄関の近くには来客向けの部屋を。奥に進むにつれてプライベート色の強い部屋に。北側は生活のサポートをする領域で、それら多くの部屋を老化や縁側で繋いでいる。時代のうねりは容赦なく、さらに激烈になっていく。

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Google Earth旧近衞文麿邸荻窪(東京)
激論「荻外荘会談」アメリカと戦うのか!?否か!?

昭和16年7月に第三次近衛内閣が始動した。昭和16年に開戦前夜という緊迫の中で、荻外荘会談が行ったのが午後2時。近衛内閣は4にの重要人物とアメリカと戦争の是非を話し合った。近衛文麿はアメリカとの戦争を回避したいという考えだったが、東条英機と対立。荻窪会談が終わったのは午後6時過ぎ。近衛文麿は開戦をするなら自身は総理大臣をやめると宣言。10月16日に第三次近衛内閣は総辞職。2日後には東条英機が組閣。昭和16年にこの日から3年8カ月、日本は後戻りのできない戦争に突入した。

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サイネットフォト及川吉志郎旧近衞文麿邸朝日新聞社東條英機荻窪会談豊田貞次郎近衞文麿鈴木貞一
内閣総理大臣の旧宅「荻外荘」 建築家・伊藤忠太の真骨頂

荻外荘では来客のおもてなしにも使われていた食堂が。西洋風のデザインだが、伊藤忠太はこの部屋にしっかりと東洋風も盛り込んでいる。鶏頭という植物に似た文様は中国から伝わったとされる。また荻外荘の天井が高いのは、医師の入澤達吉が西洋の暮らしをすれば日本人の身長が伸びると考え、椅子の暮らしを基本とし、それにあわせて天井や鴨居を高くした。当時の住宅の鴨居のタカさは5尺7寸。6尺はほしいという入澤の主張に6尺3寸に。ひさしや天井を高くすることで外光を取り込んだ。近衞文麿にとっても良い住宅で、長身痩躯の近衛は、普通の日本の家の鴨居ではよく頭をぶつけていたがストレスなく過ごしていたという。広縁では当時は富士山が見えていた。

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ColBaseサイネットフォト伊藤忠太入澤達吉富士山旧近衞文麿邸朝日新聞社近衞文麿
シリーズ〈時代の真ん中で〉3昭和編「荻外荘」近衛文麿の最期

荻外荘には近衛文麿の書斎が。当初はこの書斎は洋間だった。しかし、その部屋を近衛は和室に改修した。一線を退いた近衛はこの書斎で対米和平交渉の道を探っていた。しかし、戦争が終わり、その4カ月後に、GHQから戦犯容疑で出頭命令がきた朝のこと。近衛は荻外荘で生涯を閉じた。荻外荘はGHQの管理下に置かれ、ひっそりと役目を終えるはずだった。

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サイネットフォト入澤達吉旧近衞文麿邸朝日新聞社近衞文麿連合国軍最高司令官総司令部
国史跡 荻窪「荻外荘」昭和史にその名を刻んで

昭和22年に吉田茂が荻外荘の母屋を2つにわけて近衛家の人々と同居した。電気、ガス、水道代と庭の手入れ代は吉田が持ち、翌年に総理に返り咲いた吉田は荻外荘を組閣本部にした。

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サイネットフォト吉田茂旧近衞文麿邸朝日新聞社荻外荘公園
(エンディング)
次回予告

新美の巨人たちの次回予告。

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