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「稗史億説年代記」 のテレビ露出情報

喜多川歌麿は画期的な美人画を生み出した絵師と言われている。歌麿は女性のちょっとした仕草から内面の魅力や人生の物語を伝えようとし、この試みはそれまでの美人画の常識を覆す大発明だった。その画期的な美人画の裏にいた仕掛け人は版元の蔦屋重三郎(通称・蔦重)。版元とは出版の総合プロデューサー。吉原の遊郭の中で生まれ育った蔦重は遊郭ガイドや遊女情報の本などでヒットを連発。ところが、寛政3年に蔦重は風紀の乱れを取り締まろうとする幕府によって出版停止などの処分を受ける。そこで、蔦重は文字から浮世絵への世界へ活路を見出そうとした。当時、浮世絵は庶民が気軽に買えるアートで1枚の価格はかけそば1杯ほど。蔦重が大勝負のパートナーに選んだのが歌麿。2人の野心によって生み出された浮世絵は次々にヒットした。
人気絵師・歌麿の前に立ちはだかった江戸幕府。蔦重と歌麿は評判の美人に目をつけ、名前を書き入れた絵を売り出した。すると、絵のモデルになった茶屋娘に一目会おうと大勢の客が店に押しかける騒ぎに。まもなく幕府は茶屋娘の名前を書くことを禁じた。そこで歌麿が出したのが絵で名前を表した「判じ絵」。すると幕府は判じ絵も禁止とした。この逆境が歌麿のプライドに火をつけ、女性の新たな魅力を描き出す挑戦的な絵を発表。無名の働く女性を描くという挑戦を始めた。
そもそも幕府はなぜ厳しい規制で歌麿を締め付けようとしたのか。表現の規制という方針を打ち出したのは風俗規制に力を入れていた老中・松平定信。寛政12年、幕府は女性のアップの絵を禁止。すると歌麿は女性の姿をした妖怪を描き、あえて規制にあてつけるように売り出した。人気絶頂となった歌麿だが、幕府から絵本太閤記をもとにした浮世絵が出版停止の処分を受け、自身も刑を受けた。

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